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「息子は、二十歳になるはずだった」大川小遺族の7年間

いい判決を肴に息子と酒を酌み交わしたい

2018/03/11

避難まで約50分、話し合いが続いた

 学校は川の堤防よりも低い位置にある。校庭よりも高い場所にあるのは「裏山」か、堤防道路で、新北上大橋のたもとである「三角地帯」と呼ばれる場所だ。ただ、「三角地帯」は堤防と同じ高さで、「安全」とは言い切れない場所でもある。結果的に「三角地帯」に避難することになる。それまで約50分、話し合いが続き、移動中に津波が襲って来た。そのため犠牲者が多かった。

校舎から見る裏山。大輔くんは津波が来る前、「山さ、逃げっぺ」と言っていた。

  自然災害のために避けられないことだったのか、教育現場でのミスが招いた人災なのか。石巻市教委も遺族側も調査を行ったが、最終的には文部科学省の主導で「大川小学校事故検証委員会」が設置された。しかし、それまでの調査を超えたものは出てこない。子どもたちに死者・行方不明者が多くなったのは避難が遅れたため、という結論しか出せなかった。 

 遺族のうち、児童23人の19遺族は、安全配慮義務違反を理由に、宮城県と石巻市に対して、23億円の損害賠償を求めて提訴した。仙台地裁(高宮健二裁判長)は、津波が押し寄せることは予測でき、裏山へ避難すべきだったとして、14億円の損害賠償を命じる判決を下した。ただ、マニュアルの不備などの事前対策については指摘されていない。 

「一審で勝訴はしたが、遺族側の主張が認められたわけではなく、納得していない。しかし、子どもを亡くし、裁判も時間がかかったので、ダメージは大きい。納得して終わりにしたかった。我々から控訴は考えていなかった」 

唯一生存した教諭は、裁判を通じて証言をしなかった

 結局、判決を不服として県と市が控訴した。「これ以上争いたくない」と思っていた遺族側だが、県と市が控訴したことに加え、判決が直前の避難行動のみを問題にしていたこともあり、判決不服で控訴した。控訴審(小川浩裁判長)は今年1月23日、結審した。唯一生存した教諭は、裁判を通じて証言をしなかった。また、新しい事実が出てきたわけではない。しかし、浩行さんは、判決に期待している。判決は4月26日――。 

「控訴審では、事前の備えの部分を強調した。証人尋問で市教委は、定例校長会議や教頭会を通じて指示したり、また研修もしていたと言い、各学校の現場の問題、と主張していた。自分たちには責任はないと、現場に責任を押し付けようとしていた。これは個々の現場の問題ではなく、組織の問題だと思っている。校長の危機管理意識とか能力の問題があるのなら、それを管理するのが市教委。教育行政の問題ではないか」 

今野さん宅では震災で亡くなった子どもの写真が飾られている。

 控訴審が結審したとき、一部の報道では、「和解選ばず」「和解応じず」「和解拒む」などの見出しが躍り、遺族側が和解を拒否したとも取れるような内容の報道が流れていた。しかし、遺族側に和解内容が提示されたことはない。 

「結審の日、裁判長から『和解についての意見を聞かせて欲しい』と言われ、遺族側と県・市側に分かれて、『われわれは判決をいただきたい』と言っただけ。和解内容は提示されていない。県・市側も積極的に和解案を出すということをしたことはない」  

 亀山紘市長は2017年12月4日の定例記者会見で「裁判所から提案があれば真摯に検討したい」と、高裁側からの和解提案を待つとしたものの、市から和解案を出すことはないとしていた。しかし、市側の代理人が結審後に「和解を望んでいたが、残念だ」と記者に答えたこと、亀山市長が「和解に至らなかったことは大変残念」とコメントを出したことも見出しに影響したのだろうか。