読んでいる間じゅう、背中がぞくぞくしていた。食べ物の色香が立ち上がり、辛抱たまらん気持ち。京都の食べ物を、全編すべて京言葉で語り尽くす本邦初の試みだ。
「なにゆうてんのかようわからん! 言い回しもございますやろけど堪忍しとくれやっしゃ。『考えるんやない。感じるんや』とかゆわせてもろたらよろしやろか」
するっと土俵に引きずり込む。
この音、このリズム、この抑揚で伝えなければ本当のところは表せない、という感覚は誰にも共通のものだろう。けれど、多くのひとに伝えたいという意欲をもって書き言葉に変換するとき、わかりやすさを優先すれば、大事なナニカが失われることがある。五官が橋渡しする食べ物の話なら、なおのこと。
その欠落感を逆手にとったのが、著者の入江敦彦さんだ。京都西陣生まれ、長年のロンドン暮らし。京都にまつわる数多の著書をもち、裏路地一本まで知り尽くす怪人だ。おなじ京言葉でも、誰がどう語るかによってニュアンスは大きく違うはず。著者が操る音やリズムは、あるときは風にしなる柳の枝、あるときは的確にハマるムチ、優雅と獰猛を飼い慣らして生き物のようだ。
ルビまで京言葉を守る徹底ぶり。
多い多い=おいおい
少ない=すけない
動かん=いごかん
お醤油=おしょゆう
草臥れますわ=くたべれますわ
勉強になります。固有名詞まで京言葉、イギリス人デザイナー、ポール・スミスは「ポール・スミッさん」。観光さん=よそさん、だだ臭(くさ)使う=無駄な大量消費……一語一文が京都人の毛細血管だ。
そんなわけだから、切れば血が滲む一冊である。「マリーフランス」のあんぱんに肩入れし、「中村製餡所」のあんこにありったけの愛情を注ぐ。和菓子への思慕とともにロンドンの自宅でこしらえる栗かのこ。器や台所道具にたいする偏愛。京都産ウースターソースへの愛。季節の筍や山椒にたいする抑えきれない執着。牡丹鍋への郷愁……全編ぎゅうぎゅうに心情が溢れている。それでも悪酔いしないのは、京言葉遣いのセンスのなせるわざ。京都人は「いらんこといい」だと自嘲しつつ、そこにイギリス仕込みの黒い笑いをまぶして、向かうところ敵なし。
「喰う」という言葉への愛着が、こう語られている。
「人間らしい欲求の発露がかいらしいゆうか。いじましいて、いじらしい」
本書を読みながら、まさに同じ感情を抱いた。ゲイであることへの言及、死をも覚悟した重篤な病のこと、大切な親友との別れ。食べ物と京言葉にいざなわれ、遥々遠くにあって京都を心に棲まわせる著者を、とても近しく想った。