美空ひばりをプロデュース
——美空ひばりさんのアルバムをプロデュースするために、まず、企画書をお書きになったというところで、前回は、時間切れになってしまったんですよね、「思い出の目次」という……いつ頃のことですか?
秋元 ああ、そうでしたね。その美空ひばりさんのプロジェクトが始まったのは、1986年の秋くらいのことだったと思いますけど……僕の記憶は曖昧ですからね。
——当時は、小泉今日子さんの「なんてったってアイドル」や菊池桃子さんの「卒業」や本田美奈子さんの「1986年のマリリン」がヒットして……それにおニャン子クラブが社会現象になるくらい大ブレイクして、飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃じゃないですか?
秋元 はい。周りの環境は確かに変わりました。「朝日ジャーナル」の筑紫哲也さんの「新人類の旗手たち」に取り上げられたりして、所謂、“時の人”だったと思います。でも、どこか、醒めてました。
——どうしてですか?
秋元 所詮、アルバイトの“まぐれ当たり”と思っていましたから。
——そういうところが、失礼ながら、秋元さんの嫌らしいところですよね?“まぐれ当たり”が、そんなに連続するわけがないじゃないですか!
秋元 うちの親父は、普通のサラリーマンでしたから、当時は、「こんな“まぐれ当たり”が続くと思うなよ」と常に自分に言われているような気がしていました。
——美空ひばりさんのプロデュースの話が舞い込んだ1986年は、秋元さんがいくつの時でしたか?
秋元 本当の年齢で言うと、28歳でした。
——“本当の年齢”? サバを読んでいたんですか?
秋元 ええ、公称30歳でした。
——2歳、上にサバを読むって珍しいですね。普通は若いフリをするために、サバを読むんじゃないですか?
秋元 高校2年の時に放送作家になったせいですね。高校時代の同級生の加藤という奴が、「どうしても、ニッポン放送でアルバイトをしたい」と言い出して……僕が交渉したんですけど、大学生じゃないとアルバイトができないということになって……加藤を大学生にするために、僕もある日、突然、大学生の放送作家ということになったんです。
——それ以来、ずっと、実際の年齢より、2歳、歳上にしていたってことですか?
秋元 はい。面倒だったので、ずっと、そのままにしていました。昔の僕のプロフィールを見ると、1956年5月2日生まれになっていますよ。