倒れた雄鹿の傍らに立つ。弾は頸椎を貫通し、鹿は一瞬で絶命していた。キースが腰に下げていたナイフを抜く。一閃、鋭い切先が首元に音もなく吸い込まれ、引き抜かれる。止め刺しと呼ばれる手技で、獲物を完全に絶命させる(とどめを刺す)と同時に、綺麗に血を抜くために行われる。
僕は強い衝撃を受けた。放出される血は、まさに水道の蛇口を全開にひねったような勢いだったからだ。地面と平行に噴き出す真っ赤な流れ。血液がこれほどの圧力で体内を巡っていたとは。初めて知った事実だった。当初の勢いはすぐに収まった。毛を伝って垂れる一滴一滴の間隔が長くなり、やがて止まる。そしてナイフが僕に手渡された。この命を、これから肉にしてゆくのだ。
「僕は肉について殆ど何も知らなかった」
僕は、肉が大好きだ。唐揚げにトンカツ。特に分厚いステーキには目がない。肉汁滴る赤い塊で口腔が満たされた瞬間。俄然、気分は昂揚し、全身に力が漲る。そうやって食べた肉は消化された後に吸収され、物理的に自分の体を作り上げるパーツとなる。肉を食べることが多い僕は、他の人たちよりも多くの鶏や豚や牛から成り立っている。栄養は筋肉だけでなく、様々な臓器となり、脳にもなる。だとすると、僕の肉体だけでなく、思考を司る役割を担っているとも言える。
それだけ大切なものなのに、よく考えると僕は肉について殆ど何も知らなかった。国産和牛だとか、オージービーフだとか、その辺りまでは分かる。では、ヒレ肉は体のどこについているのか、ロースとサーロインはどう違うのか、などと問われるとはっきり答えられない。
更に問題なのは、自分が食べている個体のイメージが湧かないことだ。僕が咀嚼しているのは、果たして雄なのか雌なのか。年齢に毛の色。どんな眼をしていたのか。そして、どんな生涯を送ってきたのか――。僕の体と心と一体になる要素なのに、全く見えてこない。
スーパーで買った肉を食べるのではなく、生きものの命を自分の手で絶ち、きちんといただきたい。美味しさだけでなく、その過程にある痛みや苦しみも含めて嚙み締めたい。そうしたことができていないままに、僕は肉を食べ続けている。そんな状況に、いつしか大きな違和感を抱くようになっていた。
だから、食うものと食われるものが正面から向き合い、一対一の関係性を構築する狩猟という行為は、何年にもわたって、僕の興味の中心に在った。生命を維持することは綺麗事とはかけ離れており、徹底的に利己的な所業であることを、まずは体で感じとる。そして、そこまでしてなぜ自分は生きているのかを見つめ直したかったのだ。しかし、現代の日本で都会生活を送っている身としては、自分で獲物を狩るなど夢のまた夢だと思っていた。