「今でも、あのとき感じた鹿の体温や、腹を開けた時の蒸れたような匂いを、昨日のことのように思い出す」――カナダ先住民の生き方に魅せられて、50歳を機にNHKを辞めて「猟師」になる道を選んだ黒田未来雄さんが、初めて狩りに挑戦したときのエピソード紹介。彼が今も忘れない「1つの命と対峙する経験」とは?
新刊『獲る 食べる 生きる: 狩猟と先住民から学ぶ”いのち”の巡り』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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ミュールジカを撃った日
「さあ、もう大丈夫だ。解体を教えてほしいと言っていたね。始めようか」
言葉を一切発さずにすばやく動き回っていたキースが、ようやく落ち着いたトーンで声をかけてきた。
初のユーコン訪問は、寒中での野営や伝統的な彫刻体験に加え、僕の人生を決定付ける新たな扉を開いてくれた。生まれて初めて、目の前で鹿が撃たれるのを見たのだ。息を呑んで一部始終を見守っていた僕も、ほっと息をついた。
キースが撃ったのは、ミュールジカという鹿だった。北米大陸の西部に広く分布し、大きなものでは、体長2メートル、体重150キロ近くになる。
耳がミュール(雄ロバと雌馬の交配で作られたラバ)に似ていることから名付けられた。確かに、ラバのように耳が大きくて長い。群れを見つけた時は、もう日が傾き始めていた。3頭の雌と1頭の若い雄。美しい金色の斜光を浴びて草を食んでいた鹿たちが、一斉に頭を上げてこちらを見ている。思わず見惚れてしまう。
森の中で見る野生動物の美しさには目が眩む。凜乎とした立ち姿。黒目の奥深さは底知れない。至極の美は、完璧に森に適応したフォルムだけにあるのではない。彼らには覚悟がある。その地に生まれ、同じ場所で土に還る。精一杯に生を謳歌し、子孫を残す。しかし自然は厳しい。何か一つでも間違えば、代償は己の命だ。いかなる時も、彼らが命懸けであることは変わらない。いつだって命懸けの者は気高く、神々しい。だから単にそこに立っているだけで、見る者の心をここまで震わせるのだと、僕は思う。
「座れ、動くな」と手だけで僕に合図をすると、キースは担いでいたライフルを静かに肩から下ろした。鹿から目を離さないままにすばやく弾をこめる。同時に銃が構えられ、全身に波動を感じる轟音が響き渡った。一体いつ狙いを定めたのだろう。一連の流れるような動きのままに、銃弾は送り出された。
50メートルほど先で雄鹿がガクリと膝をつく。雌たちは驚くほどの跳躍力であっという間に姿を消した。キースが猛然と走り出す。僕も慌てて後をついてゆく。