最も美味しく、最も手強い相手――世界最大の鹿「ヘラジカ」を狩るために、カナダのユーコンを訪ねた元NHKディレクター、現在は猟師の黒田未来雄さん。実際に相対して驚いた、「鹿の王」の凄みとは?
新刊『獲る 食べる 生きる: 狩猟と先住民から学ぶ”いのち”の巡り』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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最も美味しく、最も手強い相手
カナダの野生動物の中で、いちばん旨いのがヘラジカだという。最近はファストフードに走り、ジビエをあまり食べなくなった若者たちでさえ、口を揃える。皆の垂涎の的であるヘラジカだが、キースは、年に2頭しか撃たない。キースの親族がひと冬を越すのには、それで十分だからだ。食べない肉は獲らない。たとえヘラジカであろうとも、その掟を破ることは許されない。
ヘラジカは世界最大の鹿で、巨大な雄は体重700キロに達する。極めて用心深くて賢く、人間の前には滅多に姿を現さない。最も美味しく、最も手強い相手。ヘラジカを仕留めることは、ハンターとして最高の名誉だ。誰かがヘラジカを仕留めると、噂はあっという間に街中に広がる。
キースが狙うのは雄だけ。しかも獲るのは秋の10日間ほどに限られる。夏は、撃ってもすぐにハエがたかって卵を産むため、肉が駄目になってしまう。冬は痩せていて美味しくない。秋には、肉に脂が乗り最高の状態になる。そしてもう一つの理由は、ちょうど絶品の肉がとれる間だけ、普段よりヘラジカの雄が断然獲りやすくなるからだ。
9月中旬、ヘラジカは繁殖期のピークを迎える。雌を求める雄は広い範囲を徘徊し、警戒心が薄れる。この時を狙うのだ。雄はしばらくさすらい続けるが、一旦繁殖モードに入ると何も食べなくなり、急速に脂が落ちてしまう。雌を巡ってのたび重なる大喧嘩によって、大きな傷を負っていたり、肉が傷んだりしているものも増えてくる。キースが年に10日ほどしかヘラジカ猟をしない理由はそこにある。
僕はいつも、できるだけそのタイミングに合わせてユーコンを訪ねていた。しかし、さすがのキースをもってしてもヘラジカを獲るのは簡単ではなく、何度通っても、僕の滞在中にその瞬間が訪れたことはなかった。
8回目の訪問時。今度こそは、とことん本気でヘラジカを狙おうということになった。僕らは四輪駆動のバギーや、更に走破性の高い八輪駆動車に野営道具と食料を積み込んで山に分け入った。
道なき道をどんどん上がってゆく。僕が運転するのはバギー。シビアな局面が絶え間なく続く。急斜面を縦に登るのはまだしも、横方向に走るのは困難を極めた。ハンドルを取られ、山側のタイヤが浮く。下手をしたらバギーごと坂を転げ落ちる。「その時にはバギーを捨てて、山側に飛べ。谷側に落ちて車体に巻き込まれたら万事休すだぞ」とキースがアドバイスをくれた。ただでさえ、大きく傾いたバギーから僕自身が転落しそうなのに「この状態からどうやったら上方向に飛べるんだよ」と恐怖に慄く。そんな僕を尻目に、キースのテンションは最高潮。どうやら、悪路はキースにとっては単なる娯楽で、冒険心を煽り立てる存在でしかないようだ。