「んンーーンァッ、んンーーーンァッ!」
「んンーーンァッ、んンーーーンァッ!」キースが鼻に手を当てて、くぐもった声を出す。発情したヘラジカの雌の鳴き声を真似ているのだ。特別な道具を使うわけでもなく、ただ声を上げているだけ。そんな原始的な作戦が通用するんだろうかと訝しんでいると、驚いた。どこからともなく、本当に雄が姿を現したのだ。
こんな簡単な手に引っ掛かり、いそいそと姿を現すとは。雄とは斯くも短絡的で不甲斐ない生きものなのか。同じ雄として、なんとも情けない気分に陥る。大きいなあ、と感心していると、まだまだ若くて小さいという。しばらくしてもう1頭、更なる威容を誇るヘラジカが現れた。名前の由来となったヘラ状の巨大な角を振り回している。あまりの雄々しさに陶然となる。撃つならアイツだ、とキースがジェスチャーで伝えてくる。距離は500メートル以上。いくらなんでも遠すぎる。
近付いてくるのを辛抱強く待ったが、しばらくするとその雄は立ち去ってしまった。完全に発情していれば、10メートルの距離まで近寄ってくることもあるそうだ。まだ発情の度合いが足りず、少なくともあと数日はかかるとキースは言う。9歳の孫を連れていたこともあり、後ろ髪を引かれながらも山を降りた。せっかくヘラジカ狩りのためにユーコンまで来たのに、またしてもダメだったか、と僕は肩を落とした。
ところが、チャンスは意外なところに転がっていた。
下山したキースが街で友達と立ち話をしていると、なんと昨晩、近くの林道の奥で大きなヘラジカの雄を見た人がいるという。色めき立った僕らは、家にライフルを取りに戻るやいなや、一目散にそのポイントを目指した。キースが雌の鳴き真似をする。何も変化はない。しばらくしてもう一度。すると、遠くから低い音が聞こえてきた。
「んフォッ、んフォッ!」――なんと、雄が鳴き返してきたのだ。一気に緊張が走り、期待が高まる。しかし焦りは禁物。早く誘き寄せたいがために、雌の鳴き真似をしすぎると怪しまれ、逃げられてしまう。逸る心を抑える。時間が異様に長く感じられる。
少しだけ立ち位置を変え、5分以上おいて、また鳴き真似をする。雄の返事が前よりも近い場所から聞こえてきた。キースが僕を振り返って頷く。雄は完全に繁殖のスイッチが入っている。キースの、ハンターとしてのスイッチも同様だ。後ろ姿から、凜とした気が充溢しているのを感じる。僕も必死に耳を澄ます。すると、ポキッと枝が折れる音や、ガサガサと落ち葉を踏む音が聞こえてきた。やがて木立の枝が揺れるのが見えた。近い。心臓が暴発しそうだ。最後の鳴き真似。そして遂に、それは現れた。
恐怖心を捨て去った鹿の王。巨岩のような体軀が放つ壮烈なオーラに固唾を呑む。僕の眼前に立つのは、この世の生きものなのか、或いは魔界からの使者か。周りの空気が揺らぎ、歪む。いつまででも眺めていたい。怒濤のように押し寄せる波動を浴び続けたい。しかし密やかな僕の願いは、ライフルのトリガーにかけられたキースの右人差し指によって断ち切られた。