アニメーターの壮絶な略奪劇、宮崎駿の口説き文句は
「文藝春秋」2023年9月号には本作の作画監督、本田雄のインタビューが掲載され、庵野秀明のカラーの社員として『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の主軸になるはずだった彼をめぐる、鈴木敏夫による壮絶な引き抜き劇、略奪劇とも言える顛末が語られている。
《「宮崎家は長寿の家系ではなく、80歳の壁を超えた人はいないんです」「僕にとっては最後の作品になるかも知れない」》。75歳の宮崎駿に対面でそう説き伏せられた本田雄は《ずるいですよ、宮崎駿にそう言われて断ることができるアニメーターはいない》と、不義理を承知で『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を抜けた経緯を回想する。
本田雄だけではない。『君たちはどう生きるか』のエンドロールに流れる錚々たる名前は、まるで日本アニメの総力戦のようだ。『もののけ姫』を支え、後に新海誠を『君の名は。』でスターダムに押し上げた安藤雅司。宮崎駿の下『借りぐらしのアリエッティ』で監督としてデビューした米林宏昌も1人のアニメーターとして絵を描いている。宮崎駿を慕いながらジブリ入りが叶わなかった細田守が率いる「スタジオ地図」の名もスタッフロールにはある。
スケジュールが空いているはずもない日本アニメの主力たちがこれほど集まるまでには、本田雄ほどではなくともそれぞれの犠牲を払ってきたはずだ。
映画ににじみ出る「悲しみ」
今回は体力的に、宮崎駿が全面的に作画に関わる今までのスタイルではなく、若手に任せている、という事前のアナウンスに感じていた不安は大きなものだった。「アニメーション、絵を描くことは世界の秘密に触れることだ」と繰り返し語る宮崎駿の絵には、絵柄を似せるだけでは再現できない、形容の仕様のないオーラがある。
だが若手たちが宮崎駿の指揮のもとに描いた今回の『君たちはどう生きるか』の作画には、まさしく宮崎駿的としか言いようのない「世界の秘密」に触れるような絵が無数に重ねられ、アニメーションを構成していた。
公開後に明かされた参加スタッフの声によると、宮崎駿本人も体力の許す限りに絵を描き、手を加えたようだ。しかし本作を『ロンダニーニのピエタ』にしなかったのは、宮崎駿の後を追い、時には仕事をめぐり激しく対立し、一度は彼の元を去った弟子たちが彼の目となり手となったからだろう。日本アニメの次の世代の才能に支えられて、『君たちはどう生きるか』は見事な映像美を宮崎駿の作品史に残すことができた。
その一方で、やはり精神的にはこの映画には若い時代の希望に溢れた作品にはない、『ロンダニーニのピエタ』に通じるピエタ(慈悲、悲しみ)があるように思えた。