瑠奈容疑者の刃物への執着は、道警の捜査でも明らかになった。社会部記者が明かす。
「道警が田村一家の自宅から押収した刃物は、ノコギリ4本を含む刃物およそ20本。このうち複数本が瑠奈容疑者の部屋から見つかっています。弁護士の話によれば、瑠奈容疑者は事件前から刃物の収拾癖があったとのことです。瑠奈容疑者と修容疑者は事件前にノコギリやナイフを買い、被害者の男性との待ち合わせ直前にもノコギリを1本購入しています」
修容疑者が考える「殺人」
一方、修容疑者は1999年5月18日のブログで、戦争報道について取り上げ、以下のように綴っていた。
〈人間(日本語の。他の言語の事情はわからぬ)という言葉は、それこそ「人間関係」と言ってもおかしくない。その関係性(あるいは共同体)を支える最低限のルールの一つが「相手を殺さない」だと考える。これは当然「相手に殺されない」と対になっている。この最低限のルールを守って初めて「ホモ・サピエンス」は「人間」という社会的存在たりうるのだと考える。それを考えず「何をやっても自由」と考えるのなら、それは社会のルールを無視しながら一方で社会の恩恵だけにはあずかろうという、手前勝手な発想。ただの「ヒト」であって「人間」ではない。
さて「人間関係」というものは、何等かの軋轢が生じれば、互いに傷つき傷つけられることになる。それが現実だ。「殺す」が「傷つける」の究極と考えれば、人間関係とは「その関係の維持には『傷つけない(殺さない)』ことが必要だが、関係を維持すれば必ず『(殺さない程度に?)傷つける』ことがある」という矛盾(のようなもの)を孕んでいる。しかし、括弧書きしたように殺すと傷つけるは程度(量)の問題だけではなく、質的な境界が(幅はあるが)存在する。それが「ヒト」と「人間」の境。
再度問われる。「人間を殺して何が悪い」と。悪いなどと一言も言ってない。殺した時点で貴方は「人間」ではなく「ヒト」という獣になるんだよ。それは「人間」としての貴方の自殺行為ですと。その覚悟があるかと問い返したいのです。
「では肉親を殺されたら?」。その時点で相手は「私にとって」獣です。獣には獣としてそれなりに応じてあげるのが礼儀ってもんです〉
修容疑者の「殺人」に対する考えがよくわかる文章だ。このブログを綴ってから24年後、親子3人は殺人を犯し、修容疑者の表現を借りれば、まさに「ヒト」という獣になってしまった。修容疑者を知る30代男性はこう話す。
「今から約15年前、私が高校生のころ、田村先生の診察を受けに2年ほど勤医協中央病院に通っていました。田村先生は物腰柔らかくて、優しく、親身になってくれる人でした。医師と患者という関係で何かおかしいと思ったことは一度もありません。このような事件になり、本当に驚いています……」
札幌地方検察庁は3人の刑事責任能力を調べるため鑑定留置を簡易裁判所に請求し、8月24日認められたと報じられた。期間は今月下旬から来年2月下旬までの6か月間で、鑑定留置の期間としては異例の長さだという。3人について、今後、専門家による精神鑑定などが行われ、検察が鑑定結果も踏まえて起訴するかどうか判断するという。
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