「門からお屋敷まで車で10分。床に反射する光が眩しくて、目もあけられないほどだった」――。人気連載「小林旭 回顧録」第4回「ジョン・ウェインの大豪邸」を一部転載します(「文藝春秋」2023年9月号より)。
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「握手した瞬間、ずいぶん肉厚でデケぇ手だなあと思ったよ。俺の手も十分大きいと思っていたけど、とんでもない。倍くらいはあったんじゃないかな。後にジャック・ニクラスやアーノルド・パーマーとも握手したけど、ゴツゴツした彼らの手とは違ってスベスベしてて、なんだか温かいんだ。
天下のジョン・ウェインから見たら、当時の俺なんて屁みたいなもの。ハリウッドの英雄に手を握られたあの感触は消えないし、わずかな時間でも相手をしてもらったことは懐かしい思い出だよね」
米ロサンゼルス近郊の丘陵地帯。5エーカーの敷地に建つジョン・ウェインの邸宅を小林旭が訪ねたのは昭和36年のことだった。
『駅馬車』(昭和14年)や『リオ・ブラボー』(昭和34年)、『史上最大の作戦』(昭和37年)などの代表作があり、「アメリカの英雄」と呼ばれたウェインは当時50代半ば。一方の小林はウェインより30歳以上年下だったが、映画俳優としては絶頂期を迎えつつあった。昭和34年公開の『ギターを持った渡り鳥』を第1作とする「渡り鳥」シリーズが空前の大ヒットを記録したのだ。
ギターを背にあてどのない旅を続ける流れ者のヒーロー・滝伸次が、悪者相手に鮮やかなガンさばきで弱きを助け、次の旅路へ消えていく。勧善懲悪の物語は国内だけでなく、台湾や香港、タイ、フィリピンの若者をも熱狂させ、小林の歌う主題歌もヒットするなど「アジアのアクションスター」の名をほしいままにしていた。
「あの時ハリウッドに行ったのは、在米日系人が買ってくれたレコードの印税を受け取りに行くためでね。現地のMGMがキープしていた額が7万ドル以上貯まっていたんだ。1ドル360円の時代だよ。
ところがそれを日本に持ってくるとなると、当時の外為法の関係で年500万円しか運び出せない。そんなの冗談じゃねえ。何年かかるかわかんないっていうんで、向こうに行って全部使っちまおうとなったんだ。
まだ20代の若造がボディーガードを引き連れて、ラスベガスで葉巻くわえてね。真っ白なタキシードを着てふんぞり返ってたんだから大馬鹿野郎だよね。
フランク・シナトラが所有していたホテルに滞在して、サミー・デイビス・ジュニアやシナトラ一家の連中と毎晩のようにギャンブルやったり酒飲んだりして大騒ぎさ。ディーン・マーチンやボブ・ホープとも宴会したり、そりゃもう凄かった。
そのときハリウッドでMGMのスタジオから何から案内してくれたのがジョー・パスターナクというプロデューサーで、彼がジョン・ウェインの家に連れて行ってくれたんだ」