しかし、これらの製品は海外に押されるようになる。最終的には「農畜産物の輸入自由化により、安いたばこや生糸の輸入が促進され、葉たばこ、養蚕産地は大きな打撃を受けた」(『ピーマン導入30周年記念誌』JA福島さくら発行)。
佐久間さんは、こうした農業情勢に日本の工業化が拍車をかけたと考えている。「福島にも1970年代から企業がどんどん進出し、農家の長男であっても就職していきました。農外収入で生計を立てるようになったのです。実は私も農家の長男で、会社に就職したうちの一人でした」と話す。
農業を廃れるに任せていいのか。
そうした問題意識から、三春町では農協が中心になって養蚕や葉たばこに替わる農産品を模索し、1986(昭和61)年にピーマンの試験栽培を始めた。「当時の農家は自分の家で食べるピーマンぐらいしか作っていませんでした。ピーマンが選ばれたのは、当時の組合長が市場関係者らと相談するなどして、これなら将来性があると判断した結果です」と佐久間さんは語る。
「ピーマンは栽培したら儲かる」というイメージ
2年後に本格栽培に移行し、生産農家は116戸に増えた。だが、各農家で袋詰めまでしなければならない作業が大変で、80戸に減った。対策として共同選果場を建設。袋詰めの労力が軽減されると、生産に取り組む農家が再び増えた。
1992(平成4)年に三春町内にあった3農協が合併して、三春町農協になる。1995(平成7)年には三春町を含む田村郡の7農協が合併して「たむら農協」になった。さらに2016年には浜通りから中通りまでの5農協が大合併して福島さくら農協(JA福島さくら)に。こうした合併に伴って、ピーマンの生産も当初の三春町から田村市、小野町、いわき市などへと拡大していった。
佐久間さんは「夫婦2人で取り組めば、10アール(1反)程度は栽培できます。1反当たりの収穫量は平均6.5トン。反収は220~230万円になります。一生懸命にやって10トン収穫できれば、400万円ほどになる場合もあります。肥料代などに約40万円がかかり、共同選果の経費も出荷額の40%を支払わなければならないので、これらを差し引かなければなりませんが、米など他の作物に比べたら、農家にとっては大きなお金になるのです」と生産が拡大した理由を説明する。
2010年度には生産者が300戸を超え、合計の販売金額も6億円を突破した。
JA福島さくらの「たむら統括センター」でピーマンを担当している松崎利一・営農課係長は「すごく盛り上がりました。キロ単価はじわじわ上がって344円。栽培したらもうかるというイメージができていました」と振り返る。