2023年4月5日、心筋梗塞のため87歳で亡くなった「ムツゴロウさん」こと畑正憲さん。自然と人を愛し、夢を追い続けたムツゴロウさんは、老若男女問わず、多くの人に愛された。
ここでは、そんなムツゴロウさんが生前に綴っていたエッセイをまとめた『生きるよドンどん ムツゴロウさんが遺したメッセージ』(毎日新聞出版)より一部を抜粋。39歳のときに胃がんが見つかり、胃を摘出する大手術を行ったムツゴロウさんは、当時どのような思いを抱いていたのだろうか——。(全2回の1回目/2回目に続く)
夢の中、がんの切除
すべては夢の中だった。仕事で東京に出なければならぬ朝。
「私、釧路まで行きます。ちょっと、税理士さんに届ける書類がありますので」
女房がそう言って、風呂敷包みを持ち、隣りにのってきた。
タクシーが走りだすと、むかっときた。
「いけねえ」
そう思って、吐気を吞みこんだ。
「停めて。停めて!」
しばらくタクシーが走った頃、いきなり私は口走り、外へと転げ出た。
道端の草むらに、げぼりと吐いた。
「私、行きます!」
女房がきっぱり言った。決意をこめた厳然とした口調だった。
タオルを渡してくれた。
私は、それで口のまわりを拭きながら、グルとは違うなと勝手に考えていた。
大病の予感はあった。なにしろ、2日か3日おきに、口から血を吐いたのだから。
その病気の予感のせいかもしれないが、大型秋田犬のグルを、仕事の際、書斎に入れるようにしていた。グルは、私が血を吐くと、前足でトントンと足踏みをした後、首を曲げてその血をすべて食べてしまった。床におちたものは、拭ったようにきれいになめとるのである。
私は吐血後、ポカーンとしている。グルがわきの下に顔を突っこんでくる。
「グルか。グルよ、グルよ」
言い知れぬ不安にさいなまれつつ、私はグルの首を抱いていた。
親友の病院で手術が決定
女房が東京までついてきた。ホテルにチェックイン。温度が急に上がったせいか、そこでまたムカッときた。急いで洗面所へ行く。
いつものコーヒー色の吐瀉物ではなく、鮮血が多く混じっていた。
女房が、テキパキと事後処理をし、私の首筋をつかむようにしてベッドに寝かせつけた。
夢うつつ。
でも、隣の部屋で、女房が誰かに電話をしているのは分かっていた。
夢うつつ。そして、うつらうつら。いつかはぐっすり眠ってしまった。
眼を開けると、女房の顔があった。
「明日の予定、キャンセルしましたから。明日からは入院です」
「へ、どこへ」
「Kさんがきてくれます。何も考えず、あなたは寝て下さい」
口をはさむ余地はなかった。
Kというのは、映画時代の親友だった。潜りの仲間でもある。