「核共有」という言葉が生んだ“誤解”
安倍氏はフジテレビの番組で、ドイツなど北大西洋条約機構(NATO)諸国の一部と米国が採用している「核共有」を日本も導入するかどうか、議論を始めるべきだとして、こう提案した。
「世界はどのように安全が守られているか。日本の国民の命、国をどうすれば守れるか、さまざまな選択肢を視野に入れて議論するべきだ」
安倍氏が触れた核共有は、端的に言えば、欧州などに米国の核爆弾を配備し、有事の際は配備した国の戦闘機がこれを載せて出撃するという仕組みだ。冷戦時代の1950年代後半から始まり、現在はNATOに加盟するドイツ、オランダ、ベルギー、イタリア、トルコの五カ国に核爆弾が配備されている。安倍氏が、これと同様のものを念頭に置いていたとすれば、日本での核共有は、在日米軍基地などに米国の核爆弾を配備し、有事の際は航空自衛隊の戦闘機に搭載するイメージとなる。
この提案は、新聞やテレビのほかSNSでも広がりを見せるなど反響を呼んだ。多くの読者や視聴者にとっては、「核共有」という言葉自体が初耳だったこともあり、誤解を含め、さまざまな解釈が飛び出した。
核武装論につながる主張は、責任感のない幼稚な人たちの考え
安倍氏の提案に、被爆地・広島出身の岸田文雄首相は慎重な構えをみせた。首相は、日本には非核三原則があることを理由に「政府としては(核共有を)議論することは考えていない」と国会で答弁した。ただ「国民的議論があるべきだ。我が国の安全保障に資する議論は行われるべきだと一般論として考えている」とも述べ、安倍氏の政界での影響力を考慮し、党内での議論は容認する考えを示した。
私は、核共有論議の提起は、米国が日本に差し掛けている「核の傘」が、「破れ傘」となり、機能していないのではないかとの疑問を投げかけたものと受け止めた。核共有の議論の行き着く先は、日本の核武装論にたどりつくはずだ。使い物にならない「破れ傘」を諦め、自分の傘(核兵器)を持とうという議論になる。
日本では1960年代後半、米英仏中ソの五カ国以外には核兵器の保有を認めないNPTへの加入をめぐる際も、核武装論が議論になったことがある。自民党のタカ派議員らが、「この条約は不平等だ」と反発し、日本も核武装を探るべきとの主張が飛び出した。だが、日本が核武装を目指せば、核兵器を保有する米英仏中ソが、自分たちの「特権」を守ろうと、総力を挙げて日本の動きをつぶしにくるのは確実と判断し、この議論はついえた経緯がある。主張は勇ましいかもしれないが、核武装を目指せば、日本は世界の孤児となる。核共有については、以下で議論していくが、私の結論を先に述べると、核武装論につながる主張は、責任感のない幼稚な人たちの考えだと思っている。