ジョンソン政権時代には沖縄への核配備数は過去最多を記録
沖縄への核兵器配備が始まったのは、54年9月に中国が台湾を砲撃した第1次台湾海峡危機がきっかけだった。それを踏まえ、米国は12月から沖縄・嘉手納基地への核兵器配備を始める。東西冷戦の最前線として、ソ連と激しい緊張関係が続いていた西ドイツへの核配備よりも3カ月早い配備だった。アジアでは51年6月のグアムに次ぐ2番目となる。当時のアイゼンハワー米政権は、核兵器を「使える兵器」と位置づけ、前線に配備する「大量報復戦略」を採用、アジアや欧州の最前線に核兵器配備を始めていた。
アジアでは57年12月にフィリピン、58年1月には韓国、台湾へと核配備が進む。当時、台湾(中華民国)は国連安全保障理事国の座にあった。72年2月のニクソン米大統領の訪中で米中関係が正常化に向かったのを機に、米国は台湾に配備していた核兵器を74年7月までに撤収する。台湾に核兵器が配備されていたという事実は、中国通の記者でも知る人が少なくなっている。
61年1月に発足したケネディ政権時代には、沖縄配備の核兵器の種類が増えた。地対地ロケット弾「オネスト・ジョン」や、無反動砲「デービー・クロケット」、地対地巡航ミサイル「マタドール」など19種類に達した。ベトナム戦争が泥沼化したジョンソン政権時代の67年には、沖縄への核配備数は1287発と過去最多を記録した。沖縄は、極東最大の核兵器配備基地であり続けた。秘密が解除され、ネット上にも公開されている米国の公文書を読むと、米国は沖縄配備の核兵器を、朝鮮半島や台湾有事、そしてベトナム戦争に使う検討を重ねていたことがわかる。
日本で核共有が実現する可能性は薄い
時代を現代に移そう。安倍元首相の発言をきっかけに、自民党にとどまらず日本維新の会や国民党など野党でも核共有の議論が始まった。日本維新の会の馬場伸幸共同代表は、非核三原則のひとつである「持ち込ませず」の削除を議論すべきと訴え、二原則にすることで核共有を実現するとの主張も始めた。一方、自民党と連立政権を組んでいる公明党は「非核三原則」を理由に核共有に反対の姿勢を示した。政府が22年12月に閣議決定した、戦後の防衛政策の大転換となる防衛3文書に核共有は盛り込まれなかった。
広島出身の岸田氏が政権にとどまり、米国でも核拡散を嫌う民主党政権が続く限り、日本で核共有が実現する可能性は薄いだろう。ただ、「独自の核武装はともかく、米国との核共有ぐらいは許容範囲」と考える人も日本の政治家や官僚の中には多く、将来までは見通せない。