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核共有を考える上での最初のポイントは『非核三原則』

 バイデン米政権は「核兵器の役割をできるだけ減らしたい」と考えている政権だ。日本などとの核共有や極東への核兵器再配備にカジを切る可能性は極めて少ないと私は見ている。

 とはいえ、ロシアのウクライナ侵攻や、相次ぐ北朝鮮のミサイル実験、そして、中国の目を見張るような軍備増強に直面し、日本国民の多くが不安を感じているのも事実だ。その中で、核共有は日本の安全保障環境の向上に資するのか。検討すべき選択肢は何で、それらには、どんな落とし穴が待ち構えているのか。

©AFLO

 核共有を考える上での最初のポイントは、日本の国是である非核三原則だ。核共有を議論する上で、避けては通れない。

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 非核三原則という考えが初めて打ち出されたのは、67年12月11日の衆議院予算委員会での佐藤栄作首相の答弁だった。佐藤氏は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」と表明、これが後の非核三原則に発展する。佐藤内閣は当時、米国と沖縄返還交渉を進めていた最中だった。米国が沖縄に配備している核兵器をすべて撤収し、日本本土と同様の状況を達成しようと「核抜き本土並み」での返還を目指していた。

 首相答弁から4年後の71年11月24日、国会は沖縄返還協定を承認するとともに、非核三原則を国会決議として採択する。以降、非核三原則は国是となる。佐藤氏は74年、非核三原則を導入した功績で日本人では初めてノーベル平和賞を受賞する。

戦後、米占領下の沖縄には多くの核兵器が配備されていた

 やや余談となるが、佐藤氏の本音は、非核三原則とはまったく逆にあったようだ。65年1月、ワシントンであった日米首脳会談の際に佐藤氏は「個人的には、中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える。ただし、このことは日本国内の感情ではないので、非常に内輪でしかいえないことである」と述べている。楠田實首相秘書官が書いた「楠田日記」によると、佐藤氏は68年9月16日、料亭に向かう車中で「いっそ、核武装すべきだと言って辞めてしまおうか」と胸の内を吐露した。それに対し、楠田氏が「それはちょっと早いですよ」と諫めたというエピソードが記されている。

 話を戻そう。戦後、日本にも多くの核兵器が配備されていた時代があった。正確には、それは、米占領下の沖縄だった。

 72年の沖縄返還からすでに半世紀。若い世代の人たちと話すと、米国占領下時代の沖縄の記憶が風化しつつあると感じる。沖縄に米軍の核兵器が多数配備され、極東最大の核兵器配備基地だったという事実も忘れ去られてしまった歴史のひとつかもしれない。