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漫画版「ナウシカ」と響き合う

 眞人と大叔父が初めて会ったのは、満天の星の中、流星が落ち続ける平原だった。この場面を見て、「ハウルの動く城」で子ども時代のハウルが流星を飲み込み、胸から火に包まれた心臓=カルシファーを取り出す美しいシーンを思い出す人も多いだろう。宮﨑駿の世界では流星と心臓は等価な存在であり、共に「魂」の象徴なのだ。宮﨑駿は少年時代から「流れ星が庭に落ちて光をまき散らし、手に取ると曇りガラスの破片になってしまう」というイメージを抱いてきたという。

 おそらく、現実世界の戦争で亡くなった人々の魂は、あの異世界に「流れ星」としてやってきて、光=魂を解き放った後は石になる。石の中には戦争とナショナリズムで不本意な死を強いられた人々の悪意が宿っており、完全に浄化することはできない。少女時代の眞人の母親であるヒミが、石を拾おうとする眞人に対して「さわらない方がいい。まだ何か残っているから」と告げるのも、それに対する警告と思える。

 大叔父が世界を維持するために積み上げ、懸命にバランスを取ろうとしている積み木のような石たちも、何らかの理由で選ばれた「元は流星だった魂の抜け殻の石」を加工したものであり、だからこそ眞人が「墓と同じ石です。悪意があります」と指摘したように、悪意から逃れられないのだろう。

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 そして、大叔父が石と石とのバランスを取ることで保とうとしていることは、あの異世界の存続だけではなく、現実世界のたどる運命とも何らかの関わりがあるようにみえる。今にも崩れそうな石と石との間のバランスを、冷や汗を流しつつ懸命に保とうとする大叔父の姿は、ナショナリズムと戦争に毒された諸国間の微妙な均衡を保とうとする国際政治の暗喩のようにも見えるのだ。

 眞人と2度目に出会った時、大叔父は眞人に対して、はるかに遠い時と場所を旅して見つけてきたという13個の「悪意に染まっていない石」を差し出す。それら13個の石を積み上げることで悪意から自由な王国、豊かで平和な美しい世界を創造せよ、と。しかし、眞人は大叔父に対して、自らの傷を示しつつこう告げる。「この傷は自分でつけました。僕の悪意のしるしです。僕はその石には触れません。ナツコ母さんと自分の世界に戻ります」と。

 この世界に流星として降り注ぐ死者の魂の中には、確かに悪意に染まっていないものもあるだろう。しかし、その抜け殻である石を操る者が悪意に染まっていれば、石はほどなく悪意に犯されてしまう。「悪意から自由な王国」を創造するなど、所詮は空しい夢に過ぎないのだ――。

 このシーンは、アニメ版よりもはるかに広大で深い世界観を有する漫画版「風の谷のナウシカ」のクライマックスを想起させる。失われた文明が遺した巨大な人工知能「シュワの墓所の主」は、文明に汚染された環境を浄化して、おだやかで賢い新人類が自然と調和しつつ暮らす「豊かで平和な美しい世界」を作ることを目指していた。

漫画版「風の谷のナウシカ」は全7巻

「母さん!」「ナツコ母さん!」

 墓所の主は戦禍の地獄をくぐり抜けてきたナウシカらに「子等よ……力を貸しておくれ この光を消さないために……」と訴える。しかし、ナウシカは「否!!」「そなたが光なら光など要らぬ」と叫び、巨神兵の力を使って墓所を破壊してしまうのだ。「光と闇、清浄と汚濁の同居こそが生命の本質であり、光だけを求めようとする営為は、必ずや生命それ自体への冒瀆につながってしまう」というのがナウシカの洞察だった。

 眞人の大叔父は明治時代の知識人の1人として、ナショナリズムに目覚め戦いを通じて海外進出を目指す日本の危うさ、破滅的な未来を予見して苦悩していたのだろう。争いの絶えない世界自体に対して絶望的な思いも抱いていたはずだ。その絶望がゆえに、彼は「理想の世界を創造する」という夢に魅せられ、石と契約を結んだのだろう。しかし、大叔父が犯した致命的な過ちは「悪意」という影を排除し、光だけに満ちた世界を作ろうとしたことだった。人が光だけを求めれば求めるほど影は濃くなり、最後には影がその人と世界それ自体を飲み込んでしまうからだ。

 それに対する解毒剤が、眞人が異世界への旅を通じて得た「自らの内なる悪意の自覚」だった。おそらく、眞人は自らを傷つけた時には、なぜ、自分がこんなことをしてしまったのか、自分でも説明することができなかったはずだ。

太田啓之氏による「映画『君たちはどう生きるか』の謎を解く」前後編の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載しています。