その結果、金脈も性加害も見逃し、雑誌や海外メディアが取り上げ、火がつく。「マスメディアの沈黙」は、半世紀前から脈々と続いていたのだった。
ジャニー喜多川氏の性加害は、結局、取材する側、される側の関係に行き着く気がする。「ジャニ担」を廃止しろという声もあるが、そう簡単ではない。互いに信頼がないと、突っ込んだ情報は取れない。ろくに顔も知らない相手に、本音や秘密は明かしにくい。政治家と同じだ。
だが、まず編集部で、担当を分けることはできる。密着取材と別に、独自の取材をする者を置く。そして、金脈だろうが性加害だろうが、書くべきものは書く。当然、相手は怒って文句を言う。その時は、「係が違う」と突っぱねればいい。
また、その位、緊張感がある方が、長い目で双方のためになる。それは、今回、ジャニーズ事務所が存亡の機に立ったことで証明された。
「だって、もう昔から皆、知ってることでしょ」
そして、問題は、これだけでない。
英BBCの番組が放送された直後である。被害者らが名乗り出る以前で、メディアも様子見だった。この頃、あるテレビ局のスタッフに、性加害を取り上げるかと訊いてみた。彼は、首を横に振り、「だって、もう昔から皆、知ってることでしょ」という。新しい情報はなく、報じる価値もないと言わんばかりだった。
じつは、これは、「田中角栄研究」が出た時、政治記者が言った台詞なのだ。彼らは、「知っていることばかりだ。新しい話はない」とうそぶいた。だが、本当にそうか。当時、日本経済新聞の政治部にいた田勢康弘は、著書でこう書いた。
「まだ駆け出しだった私にはさほどの判断能力もなかったが、なんとなく違うのではないか、本当は知らなかったのではないか、と感じていた。いまになるとそれがよく分かる。古い政治記者たちが知っていたのは、登場する人物と、カネをめぐるうわさなどにすぎない。
ジャーナリストにとって『知っている』ということは、活字にできるだけの裏打ちされた情報を持っている状態を指すのである。書けもしないレベルのうわさでは『知っている』ことにはならないのだ」(「政治ジャーナリズムの罪と罰」)
実際、立花と取材班は、終戦直後に遡って田中の資産形成を調べた。片っ端から、土地や会社の登記簿謄本を取り、田中に献金した会社のリストを作る。しらみつぶしに話を聞き、彼の経歴と重ね、年表や相関図も作った。それは、まるで砂浜に落ちた針を拾い集めるようだった。