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疲弊した顔で謝罪していたSMAP

「芸能」とは、常人とは異なる身体性を用いて、日常とは異なる空間を演出すること。だからその歌や踊りや笑いに触れることで、僕らはつかの間社会のしがらみから解放される。そこにこそ「芸能」に接する悦びがある。

 ところがあの謝罪は、彼らの「芸能」よりも、事務所という「社会」のしがらみの方が強いことを満天下に示してしまったわけです。

 SMAPの疲弊した顔を見て、僕は当時こんなことを書いています。

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〈数々の舞台をプロデュースしてきたジャニー喜多川に言いたい。あんな表情で謝罪をするような舞台演芸が、あってたまるか。みんな、日常からの解放どころか、日常のいやなしがらみを思い出してしまったではないか〉

 

(『SMAPは終わらない』2016年、垣内出版)

 あの謝罪劇では、「芸能」の魅力が「社会」のしがらみに押し潰されてしまったかのようでした。とはいえ、僕は一方で「芸能」は「社会」を越えるとも思います。それが僕が音楽を聴き続けてきた理由でもあったし、だからこそあの時も、SMAPの音楽(たとえば大好きな「しようよ」)を聴きたいと思いました。

性加害を告発した、元ジャニーズJr.の岡本カウアン氏と橋田康氏 ©️文藝春秋

置き去りにされたジャニーズファンについて

 今年3月のBBCの告発番組をきっかけとする性加害問題の追及は、8月29日に外部専門家による「調査報告書」が公表され、ひとつの転換点が訪れました。

 とりわけ9月7日には、記者会見においてジャニー喜多川氏の性加害が事務所によって認められ、被害者に対する謝罪と補償・救済の意志が明言されるということがありました。画期的だったと思います。

 もっとも個人的には、事務所名の変更が必要だと思っていましたし、東山紀之氏の新社長就任に関しても、東山氏にセクハラ・パワハラの疑惑がある以上、疑問の残る判断ではあります。これについては、引き続き見ていく必要があるでしょう。

 さて、会社がしっかり社会的責任を示すというのは、簡単なことだとは思わないものの、一方でそんなにややこしい話ではないとも思います。組織としてやるべきことを粛々とやっていくしかないわけですから。社会的な信頼を得るために真摯に行動を示すしかない。

 ここで考えたいのは、これが「社会」の話としてのみ進められていったとき、置き去りにされるものについてです。とりわけ、これまでファンがジャニーズに感じてきた魅力や、今でも応援したりどうしようもなく好きであったり、という気持ち。そういう名状しがたい思いについてどう考えたらいいのかは、組織としてのジャニーズ改革とはまったく別の、なかなか解けない問題だと思います。

 ジャニー喜多川氏の功績が大きいから性加害のことを追及すべきではないという人はいまやほとんどいないでしょう。しかし振り返ると、僕は、そして多くの人も、これまでなんとなく知っていたにもかかわらず言わなかった。なぜ言わなかったのか、その点については考えてしまいます。

9月7日の会見に詰めかけた報道陣 ©️時事通信社

※後編に続く

取材・構成:週刊文春WOMAN編集部

矢野利裕(批評家・DJ)

 1983年東京都生まれ。音楽と文芸を中心に批評活動を行う。2014年「自分ならざる者を精一杯に生きる――町田康論」で群像新人文学賞評論部門優秀作品賞。著書に『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)、『学校するからだ』(晶文社)など。