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 西脇市は播州織で栄えた織物の町だ。特に田中さんが生まれる少し前までは、織機をガチャンと動かすたびに1万円儲かる、と言われるほどの景気拡大に街全体が活気づいていた。

昭和の西脇市の町並み(写真:本人提供)

「工場で働く女工さんがたくさん街にいて、その人たちの娯楽のために映画館が5館もあったんですよ。商店街にしても、都会と変わらないぐらいの賑やかさがある特別な町でした」

「胸がいっぱいになる」「亡くなった自分の家族を思い出します」

 家族で行ったアーケード街の夏祭り、デパートの屋上の小さな遊園地……。懐かしい写真を投稿すると、徐々にフォロワーが増えていった。意外だったのは、徐々に風景よりも、家族の様子に注目が集まったことだ。

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新幹線の前で記念撮影をする両親と兄(写真:本人提供)

「胸がいっぱいになる」「亡くなった自分の家族を思い出します」

 1つの写真に200~300件近くのコメントがつくことも。田中さんは時間の許す限り、その一つ一つに返事を書いた。

「みなさん、写真を通じて、うちのことというよりも、ご自身の家族を重ね合わせて懐かしんでいるようです」

 田中さんの妻も例外ではなかった。「ねえ、これ、ひょっとしてお父さんじゃない?」。ある時、Instagramを見た妻が、驚いたように言った。実はアカウントのことは妻には内緒にしていたのだ。妻は写真をじっと見たあと、ぽろぽろと涙をこぼした。「私も母に、こんな風に愛情深く育ててもらったんだ、と思って……」。亡くなった妻の母に、重ね合わせていたようだった。

「こんな家族写真、どこの家にもたくさんあるはずなのに、なんでこんなに反響があるんやろな、と疑問でした。でも、父親はありのままの写真を撮りたかったみたいなんですよね。当時フィルムはとても高価ですし、今みたいにパシャパシャと撮れる時代ではなかったので、そういう撮り方をするのが珍しかったのかな、と」

日記に綴られた父の想い

 写真に写っているのは、白黒テレビのダイヤルを回していたずらする子供の姿など、どれも日常のひとコマだ。母はアルバイトと内職を掛け持ちして家計を支えており、決して裕福ではなく、高価なフィルムを湯水のように使う父に度々小言を漏らしていた。が、それでも父が写真を撮らずにはいられなかった思いが、アルバムの写真の横につづられた日記に記されている。