Instagramのフォロワー数は9万人超え。父の遺品として残された白黒写真を、アプリを使ってカラー化し、現代によみがえらせた投稿者の田中成人さん(59)。
長年放置されてきた父の写真と向き合って気づけた、記憶になかった「家族の温かい時間」とは――(全2回の2回目/前編を読む)
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写真好きだった父との思い出
“昭和一桁生まれ”の父と言えば、頑固一徹な雷親父のイメージがある人も多いだろう。しかし、田中さんの父・耕三郎さんはまるで違った。いつでも笑顔でカメラをもって現れ、近所の子供たちから「写真のおっちゃん」と呼ばれ、親しまれていた。
「父はとにかく子煩悩で、だれとでも仲良くなれるタイプ。おしゃべりが好きで面白い人でした。元々は絵画が好きだったみたいですが、僕が生まれてから異常に写真にのめりこんだようです」
元々は播州織の工場に勤めていた父。しかし、田中さんの記憶にある父は、油まみれで朝から晩まで働く、「とんかつ屋の親父」の姿だった。
「昭和43年、僕が5歳のころに工場を離れ、市内でとんかつ屋を開業したんです。僕はこれ以降の家族の記憶しかありません。両親は朝から晩まで忙しく、休みは平日の1日しかなく、子どもとゆっくり接してくれる時間なんて全然ない。それが本当に嫌で嫌で……。お客さんが常に家にいて、しょっちゅう店を手伝わされるのも嫌だったし、客として友人が家族で食べに来るのも恥ずかしかった」
小学校3、4年のころ。田中さんはそんな寂しさを、作文にぶちまけたことがある。
「僕はサラリーマンの子に生まれたかった。日曜に休みがある家がうらやましい」
作文を読んだ父は、大粒の涙を流した。
実際、父の写真は、昭和43年を機に激減している。それでも父は、運動会などのイベントごとには店を休んで駆け付け、隙あらば写真を撮ろうとしていた。
「参観日じゃない普通の休み時間に勝手に教室に入ってきて。教壇の前に立って、『そこに並べ』と言ったあとに、ちょっと面白いことを言うてみんなを笑わして、写真を撮ったりしていました。高学年になると、そういう父を少し恥ずかしく思うこともありました」