1923年9月6日、千葉の福田村に泊まっていた15名の売薬行商人の一行が「朝鮮人」との疑いをかけられ、9名が地元の福田村・田中村の自警団の手によって虐殺された。

 そもそもこの痛ましい事件は、9月1日に発生した関東大震災以後、各地で横行していた朝鮮人虐殺の余波で起こり、さらに行商人一行が香川の被差別部落出身者であったことが、事件の解明を難しくしている。

 ここでは、ライターの辻野弥生さんが「福田村・田中村事件」についてまとめた『福田村事件: 関東大震災・知られざる悲劇』(五月書房)より一部を抜粋。事件の背景にある部落差別について、史料を元に振り返る。(全3回の2回目/3回目に続く)

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背景としての差別

 方々で狂気の「朝鮮人狩り」が行われる混乱のさなか、日本人や中国人が間違えられて殺されてしまった例も報告されている。とくに福田村事件の被害者は、当時の支配者から睨まれている「主義者」でもなんでもなく、貧しさに抗いながら日々生きる、ごくごく弱い立場の人たちであった。しかも子どもを連れた2家族を含む9人(1人は妊婦)を惨殺するという、なんとも痛ましい事件である。

 被害者は香川県からやってきた売薬行商団一行で、県西部の3つの被差別部落から来た人たちであった。そのひとつK部落では、大正5年(1916年)10月15日、差別を象徴するような事件が起こっている。

 隣村の青年総会でのこと、娯楽の少ない当時は余興として相撲が行われていた。部落以外の青年たちの弱さに歯がゆい思いをしていた部落の青年が思いあまって飛び入りで参加したところ、「汝らが出るべき場所にあらず」と、不当な差別をうけた。翌日、部落の児童40人がこれに抗議して同盟休校に入った。

 またこの部落では、大正6年から7年にかけて氏子排斥に対する反対闘争を行い、8年に氏子入りを勝ち取っている。この時の話し合いは、警察署長、課長、村長の立ち会いのもと、深夜にまで及んだが声を荒げることもなく、紳士的に話し合われたという。

「私たちの部落は、運動会の俵かつぎ競争では2メートルあまりも手前から投げて渡すような力持ちが多く、軍隊では中尉になるような人もいて、人材豊富でした」と、福田村事件真相調査会会長の中嶋忠勇(なかじまただお)さんは語る。

 大正11年(1922年)には、被差別部落の住民自らが立ち上がり、社会的差別を撤廃しようと全国水平社が結成され、西光万吉(さいこうまんきち)による水平社宣言(※1)が 「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光りあれ」と謳った水平社宣言が高らかに掲げられた。香川では2年後の1924年(福田村事件の翌年)に、三豊郡観音寺町で県水平社が結成された。1955年、水平社は部落解放同盟と改称された。