1923年9月6日、千葉の福田村に泊まっていた15名の売薬行商人の一行が「朝鮮人」との疑いをかけられ、9名が地元の福田村・田中村の自警団の手によって虐殺された。
そもそもこの痛ましい事件は、9月1日に発生した関東大震災以後、各地で横行していた朝鮮人虐殺の余波で起こった。
ここでは、ライターの辻野弥生さんが「福田村・田中村事件」についてまとめた『福田村事件: 関東大震災・知られざる悲劇』(五月書房)より一部を抜粋。事件の背景となった、当時の朝鮮人に対する酷い迫害、虐殺について、史料から振り返る。(全3回の1回目/2回目に続く)
◆◆◆
恐ろしい流言蜚語
関東大震災が語られる際に、必ず登場する言葉が「流言蜚語(りゅうげんひご)」である。流言は分かるにしても、蜚語とは耳慣れない言葉だ。蜚語を漢和辞典でひくと、だれ言うとなく伝わった噂とある。
そのデマは、早くも震災の起こった9月1日の夕刻から広まり始めた。避難所を求めて逃げまどい、余震におびえ、パニック状態の民衆のなかに、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「俺たち日本人を皆殺しにしようと火をつけた」など、根も葉もない流言蜚語(デマ)が飛び交い始め、それはあたかも枯草に放たれた火のように、たちまちにして人々の間を駆け抜けた。
流言の発生源については諸説あるが、内乱も暴動もないのに戒厳令を布(し)くわけにもいかず、その理由づけとして、どこからともなく発生した「朝鮮人来襲」のデマを政府が利用した、あるいはデマそのものを政府が捏造したとの見方も根強くある。
10月29日の報知新聞や寺田寅彦の『震災日記』、東京市刊行の『東京震災録』等のなかに、9月1日の夕方から夜にかけて、警察官からデマが流されていたという記載がある。
あるいは不逞を働いた朝鮮人もいたかもしれない。しかし日本人だって不逞を働く者はいる。それが普段から差別と恐れの対象だった朝鮮人となると、反応は強く大仰になる。そして、民衆のなかからもデマが発生したかもしれない。仮にそうだとしても、そのデマに信憑性を加え、拡大させた官憲の責任は否定できない。
私は、波乱の人生を送った明治42年生まれの上林康子(かんばやしこうこ)という女性の一代記を書いたことがある。彼女が暮らす老人ホームに1年以上通って話を聞いたのだが、彼女もまた震災時のデマに怯えた体験を持つひとりだった。
地震発生当日は、通っていた府立第一高等女学校で2学期の始業式を終えたばかりであった。友人と二人、楽しく語らいながらの帰宅途中に激しい揺れに襲われ、思わず手を取り合ってその場にしゃがみ込んだ。一瞬目まいかと錯覚したが、路面電車の敷石の間に亀裂が入っているのが目に入り、ただならないことを悟った。