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今でも出てくる新史料

 こうした関東大震災直後の「不逞鮮人」暴動の噂や朝鮮人弾圧・虐殺の目撃情報はたくさんある。それら全般については、『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 ―東京地区別1100の証言―』(西崎雅夫著、現代書館)や『九月東京の路上で』(加藤直樹著、ころから)をはじめ掘り起こしが進んでいるのでそちらを参照していただきたいが、それでもまだ。個人の日記など新史料は出てくる。筆者のところにもそうした史料があるので、ひとつ紹介したい。

 これは、関東大震災発生時に吉原近辺にいたとある男性の日記である。紙幅の都合でそこから「鮮人」に関する部分のみ抜粋する。

 九月二日(日曜)

 

 大じしん 二日目 死しよう者 五十万人

 

 ……ちようせんじんの悪人夜全市内外をおそふ。軍隊全部出働(動)ス。夜となる。全市やはりあんこくだ。不安だ。俺は玉の井の気(汽)車線路上に夜を明かす。

 

 九月三日(月曜)

 

 ……亀戸へきた。夜になった。時々はかんせいがおきる。鉄ぼう(?)の音、ねずにけいかいする。四ツ木の鉄橋下にはせん人、数十名、殺されてる。……

 

 九月四日(火曜)

 

 ……夜になり町内全部総出で、夜番けいかいスル。白しげ橋(白鬚橋)の上にてせん人若干殺さる。市内火は全部けいた(消した)。

 

 九月五日(水曜)

 

 ……十二階(凌雲閣)は□(八?)階よりくずれ、死しよう者、数百名。觀音堂五十とう(五重塔)無事。せん人ほゞつかまる。軍隊各所に武そうして居る。全くせん地の有様なり。

 噂が伝わってきた直後の9月2日こそ、それを本当だと受け取っているようなふしが日記の記述から感じられ、緊張感と警戒感が漂ってくる。しかし翌3日、4日になると「せん人、数十名、殺されてる」「白しげ橋の上にてせん人若干殺さる」と虐殺された朝鮮人の遺体を見たことは書いていても、具体的に朝鮮人が何か悪さをはたらいたという目撃談もなければ、暴動の噂すらも書いてはいない。2日の日記の記述にあった「悪人」の文字も消えている。

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 日記を披露してくれたご子息がいうには「親父は文盲だった為独学の文字」だとのことだ。確かに文字の書きまちがいや乱れは見られるし、最初こそ浮き足だった感もある。けれどもやがて冷静さを取り戻し、事実とただの噂とを見分けようとしているさまが見て取れる。

 市井(しせい)にはこの男性のような冷静さを取り戻す人びとがいる一方で、デマに煽られるまま朝鮮人虐殺に走った人びとも多くいて、両者のあいだの距離は思った以上に近い。その紙一重の差はいったい何に由来するのだろうかと考えさせられる。

福田村事件 -関東大震災・知られざる悲劇

辻野弥生

五月書房新社

2023年6月24日 発売