呉服屋を営む実家では、春夏物が一段落して、一人の番頭以外の使用人は里帰りしており、父親もあいにく骨休めに出掛けて留守であった。やがて近くの殺鼠剤(さっそざい)の工場が爆発したので、「危ない、早く宮城広場に逃げるんだ!」という兄の掛け声で、母親と6人の子どもは、途中で靴が脱げないように紐でしばり、和田倉門から宮城に急いだ。
八百屋の前を通ると、「さあ、自由に持ってってください」と言って、スイカを道にゴロゴロ放り出していた。兄と番頭は、呉服用の一反風呂敷を「さあ、どうぞ、お一人一枚ずつですよ」と言いながら配った。
真っ暗な宮城のテントの中で二晩を過ごしたが、赤ん坊だった末っ子の弟が泣くと、「赤ん坊を泣かすな、朝鮮人が攻めてくるぞ!」と、自警団の男たちに怒鳴られ続けた。「井戸には毒が投げ込まれたというし、うっかり水も飲めず、それは恐ろしかった」と、鮮明な記憶を語った。数日後にようやく帰宅した父親は、「たとえ全財産をなくしても、お前たちさえ生きていてくれたなら、また頑張れる」と、涙ながらに再会を喜んだという。
内務省がデマを打電
呉鎮副官宛打電 九月三日午前八時十五分了解
各地方長官宛 内務省警保局長 出
東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』所収「船橋送信所関係文書」より)
9月3日午前、通信網が絶ち切られたなか、内務省警保局長の名で、全国にこのようなデマを次々と打電したのは、行田の船橋海軍無線送信所だった。この電文は、内務省が単なる流言を流言としてではなく、事実と認めたことを物語っており、朝鮮人による暴動説はがぜん真実性を帯び、さまざまに尾ひれをつけながら、またたく間に全国にひろがった。
1日の午後には早くも流言が発生しており、警視庁や警察各所がとらえたものから拾ってみると、次のようなものがある。
・社会主義者及び鮮人の放火多し
・昨日の火災は、多く不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲(とうてき)に依るものなり
・鮮人二百名、神奈川県寺尾山方面の部落に於て、殺傷、掠奪、放火等を恣(ほしいまま)にし、漸次(ぜんじ)東京方面に襲来しつつあり
・鮮人約三千名、既に多摩川を渉(わた)りて洗足村及び中延付近に来襲し、今や住民と闘争中なり