自警団による狂気の行為
頻発する余震と火災で戦々恐々の群集は、それをデマとは見抜けず、ただちに在郷軍人や消防団、青年団を中心に自警団を組織し、刀剣、木刀、竹槍、鳶口(とびぐち)などで武装し、朝鮮人に暴行を加え、ついには虐殺に及ぶという狂気の行為が随所で繰り広げられた。
「2日の朝になると、流言が勢力を増し、各町内の入口に臨時関所をつくった。夜警所を守る人々のスタイルは、百鬼夜行。先祖伝来の刀をさしたり、手製の竹槍を持った物騒な手合いもあった。中には、ベースボールのユニホームに身を固め、右手にバットを持つ手合いもあった。通行人があれば、いちいち厳重に取り調べる。その答へが曖昧だと、通行を禁ずる方はいい方で、大概の場合は殴りつけてしまった」と、当時の関係者はその時のただならぬ様子を語っている。
また、『大正大震火災誌』には、9月3日の亀戸事件について次のように記されている(カタカナ表記をひらがなにして、一部抜粋)。
流言蜚語を放ちて人心を攪乱(かくらん)し、革命歌を高唱して不穏の行動ありしが為に、九月三日検束せる共産主義者数名も是日(このひ)留置場に於いて騒擾(そうじょう)し、鎮撫の軍隊に殺されたるが如き、以(もっ)て当時管内に於ける情勢を察するに足らん。而(しか)して物情漸(ようや)く鎮定するを待ちて自警団の犯罪捜査に従事し、十月一日以来其検挙に着手せり。
第一次世界大戦を前後として、労働力として朝鮮人が日本に大勢来るようになったため、1913年、内務省は「朝鮮人識別資料に関する件」(本書巻末の関連資料参照)なる秘密通達を出し、「朝鮮人はガギグゲゴが言えない」「パピプペポが言えない」「アゴ骨が出ている」「目が一重である」などと特徴を取り上げ、監視体制をとっていた。
これらが震災時に利用され、自警団は通行人を片っ端から訊問し、「アイウエオ」を言わせてみたり、教育勅語をそらんじさせたり、歴代天皇の名を言わせたり、また、朝鮮語にはない濁音がうまく言えるかどうかを試してみたり、相手にとってはまことに屈辱的な方法をとっていた。