目撃者たちの記録と証言
震災当時9歳だった劇作家の木下順二(きのしたじゅんじ)は、自伝の中に次のような目撃談を記している。
顔を血で真赤に染めて後手に縛られた一人の男が、林檎箱の上に引き据えるように腰かけさせられていた。(略)
縛られていた男の、一点を見据えていた眼が忘れられない。非常な力を持った人間が、絶対に身動きならぬまでに縛りあげられた、という思いを破裂しそうに籠めたまさに眼であった。怒り、悔しさ、屈辱感、そういうものの極限が悲痛に凝りかたまってしまって動くことのできなくなった凝視であった。
動かない眼の中にあれだけの力が籠ってこちらを刺してくる、という事実を、あり得ないことを見てしまったような感覚でいま思い返す。
その男が朝鮮人であることは、少年の私にも自然に分っていた。
(木下順二『本郷』より)
東葛地方出身者の証言も拾っておこう。我孫子市中里の星野七郎(ほしのしちろう)さん(1914年=大正3年生まれ)は、9歳の時、横浜で関東大震災に遭遇する。その4、5日後ようやく帰り着いた湖北村中里での出来事をこう記している。
夕食後、中里消防組に緊急出動令が出される。理由は、中峠上の二本榎(にほんえのき)にある八幡神社(現八丁目、八幡神社)に朝鮮人らしき者が七~八名入り、宿泊しているので警察応援及び自警の為、中峠天照神社に集合ありたし、とのこと。八幡神社は成田線の南の山林の中の無住の社。三〇平方メ―トル程の社殿に入り宿泊している様子、中里より壮年の組員が一五名、日本刀のある人は持ち、あとは消防のトビ鎌、または竹槍を持ち集合。部落がざわつく。八幡神社には夜間一〇時過ぎ襲撃して捕獲するが、抵抗すれば殺すことも止むなしと。しかし行ってみたら朝鮮人でなく東京にて震災で焼け出され郷里に帰る途中、無人の神社があり、此幸いと一夜の宿にするに入ったことが分かる。事件にならず済み、皆ホッとする……
(星野七郎『回顧九十年』より)
野田の地主の家に生まれ、震災当時は中学生(旧制)で東京の親戚に身をよせていた山崎謙(やまざきけん)さんは、川に難をのがれた寄宿先の娘さんが、浮いたり沈んだりしながら息絶えたさまを見ていた。
彼は髪型などちょっと変わった風貌をしていたため、朝鮮人ではないかと疑われ、しつこい訊問を受けた。「疑うなら家族を呼んでくれ」と詰めより、父親と兄に迎えに来てもらってやっと釈放された。疲れ切って命からがら帰ってきた息子を涙ながらに抱くようにして母親が迎えたという。
なかには、家の門や塀などに牛乳配達や新聞配達の便宜のため書かれた、アルファベットや数字などの符号も朝鮮人の仕業とされ、大げさな流言の対象となった。
山崎さんはその後、早稲田大学の哲学科および大学院に学び、大学教授などを歴任しながら、弁証法論理学の体系化に一貫して努力した。第二次世界大戦中に反戦運動のかどで、哲学者の三木清(みききよし)らとともに入獄するが、非転向を貫いた。のちに三里塚闘争にも参加し若い世代とともに闘っており、『哲学読本』から自伝『変革と反逆の77年』まで、実に45冊もの著作を残している。