1923年9月6日、千葉の福田村に泊まっていた15名の売薬行商人の一行が「朝鮮人」との疑いをかけられ、9名が地元の福田村・田中村の自警団の手によって虐殺された。
そもそもこの痛ましい事件は、9月1日に発生した関東大震災以後、各地で横行していた朝鮮人虐殺の余波で起こり、さらに行商人一行が香川の被差別部落出身者であったことが、事件の解明を難しくしている。
ここでは、ライターの辻野弥生さんが「福田村・田中村事件」についてまとめた『福田村事件: 関東大震災・知られざる悲劇』(五月書房)より抜粋。
九死に一生を得て香川県に戻った6人のうちの1人である、太田文義さん(仮名、事件当時13歳)に対して、昭和61年(1968年)に行われた聞き取りの一部を紹介する。(全3回の3回目/1回目から読む)
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「朝鮮人とちがうのか」
――大震災の時はどこにいましたか
その時私は利根川の周辺へ行商に行っていました。がいに(ひどく)揺れました。どうなるかとおもいました。地面が裂けました。
支配人は非常に意思の強い人でした。売り子に対しては非常に厳しかったです。彼は一日も休ませてくれませんでした。
私たちが各戸に訪問しますと、消防団とか警備員とかがずっとついて来て、家に入ると3人ぐらいが竹竿を持って「おまえ、どこから来たのか」と聞くので鑑札を見せ、信用してもらって奥で話をしました。家の人も「この人は朝鮮人ではないと思います」と言ってくれました。このようにして(木賃宿へ)帰ってきたことが何回かありました。
集団で転地しておった時にやられたのがこの事件です。荷物を大八車に積んで神社のところまで行きました。その時に船頭さんと支配人が相当争いました。利根川の対岸(茨城方面)に渡してもらう条件に問題があったんです。
支配人が「荷物を積んだまま渡し船に乗せてくれ、荷物ごとや」と。荷物を下ろしたり積んだりでは手間がかかる、向こうへ渡ったらすぐに行商せないかんから一時間でも早く向こうへ渡りたいとの希望でした。船頭さんは「荷物を積んだままでは行けない。荷物を下ろして渡れ」と言いました。支配人は強硬に要求しました。
船頭さんは「15名の人間は2回に分けて、荷車を引っ張る者と押す者は一緒に乗ってもらって13名は後の船で」と言いました。
そのとき船頭さんが「どうもお前たちの言葉づかいが日本人でないように思うが、朝鮮人とちがうのか」と言い出しました。船頭さんがお寺とお宮のところにあった寺の梵鐘をついたわけです。
そうすると警備していた皆さんがウンカのように集結してきました。それぞれ日本刀を持ったり竹槍を持ったり猟銃を持ったりして集まってきました。助かった私たち6名は、お宮さんの鳥居の台石に6名、9名が床几(原註7)のところにおりました。鳥居の台石と床几は互いに80メートルぐらい離れていたでしょうか。