利根川に突き返された9人の遺体
――帰ってからは
帰って一週間か10日ぐらいたって、その後丸亀の区裁判所へ来なさいという連絡がありました。それで丸亀の裁判所ヘ2回行きました。その時の行きの補償は一円二十銭か三十銭、補償してくれました。
――6人みんな行きましたか
それぞれバラバラで行きました。私は2回行きました。私は一人で行きました。他の人はバラバラ、個別に。書記官は丁重でした。検事さんから「よう助かって帰ってきたな」と言って頂きました。書いたものはくれませんでした。調書をとっただけです。私は呼ばれて事情聴取され、「念のためにもう一回、明日来なさい」と言われて2日続けて行きました。
震災から帰って私は京都へ行って、平安高等予備校へ入りました。牛乳配達したり新聞配達しながら立命館の夜間部で1年間勉強して、また東京へ行きました。そして法政の夜間部で1年間勉強しました。大災害がヒントになって自分を知らなくてはと、父の了解を得て一人であちこち行きました。家の方は15歳ぐらいですから半信半疑ですね。
支配人の方は厳しい親方でした。この方がもう少し穏健だったら私らは助かったと思います。宿の主人が「今のところは静まっていないから、茨城へ転地するのを見合わせたら」と言うのに、無理をするんですね。それが災いの原因です。宿の主人の言うことを信じておったら、こういう不幸な目に遭っていないと思います。(原註11)
――裁判のことは役場から知らされましたか
裁判については、何も誰も連絡してくれませんでした。何かの噂で自警団のメンバーが実刑をこうむったとか、6、7年の刑に服したという噂は聞きました。だけど直接は何も聞いていません。私は千葉から帰って名古屋へ行ったり京都に行ったり、その間に父が聞いたかも分かりませんが、私自身は聞いていません。
――竹市さんの弟さんは遺体を捜しに行きましたか
彼も支配人で、何人かの売り子を連れて茨城県のどこかにいたはずです。兄弟で連絡を取り合っていたはずですね。生前中、連絡を取って宿の主人から聞いたはずです。弟さんは転地したということを聞いたんでしょう。被害にあった直後、台風で相当荒れました。利根川も増水しました。その川辺を兄貴がいないということで、転地先を旅館に聞くつもりで徒歩で行ったわけです。
そして渡船場の場所を通ったらしいです。その時に増水して九名の遺体が全部藪の中にあったと聞きました。ところが「どうせこれは朝鮮人の遺体だから流せ」ということで、土地の人が全部また利根川の真ん中に突いたらしい。これは竹市さんの弟さんから聞きました。「兄貴らが殺された所を通った。旅館に行って聞いた。通って歩いた」と生前中に弟さんから聞きました。