野田から東京へはどうやって帰ったのか
――食事は警察が出したのですか
野田署のなかの保護室に6名がおったわけです。一週間ぐらい保護して頂いて「もう大体良くなったから国に帰りなさい」ということで、最年配の俊明さんは身分証明書と罹災者乗車証をもらって「これを持っていたら安心して帰れるから」といわれ、これを持って帰ってきました。避難民として扱われました。
――野田から東京へはどうやって
列車です。日暮里の手前に鉄橋があって、鉄橋の上を通って東京に入ったと思います。東京市内の災害に遭った人たちの遺体が、江戸川に材木のように流れていました。昔あった小さい軽便鉄道、一箇ずつの列車です。これで東京まで行きました。東京からは草津とかあの辺を通って帰郷しました。(原註10)
――帰りのお金はどうしましたか
全部親方に銭は渡していました。帰りは警察で若干出してくださいました。「これをお小遣いにしてかえりなさい」と。交通費は避難民は無料でした。各駅で、婦人会の方が列車が通るたびに窓から食物を差し入れてくれました。帰る途中は皆さんが親切にしてくれて、何の不自由もありませんでした。
――亡くなった人たちは
警察の人は「後で来る人がおるから」「皆と一緒に別の所におるから」と言って「殺された」とは知らされませんでした。だから武夫さんの奥さんは、ご主人が生きているような話を聞かされていました。俊明さん(生存者のおひとりの高田俊明さん)は奥さんと一緒に帰ってきました。
――自警団に囲まれたときはびっくりしたでしょう
私は少年でしたからもう狼狽(ろうばい)して、恐いとか悲しいどころの気持ちではありません。まさか殺されるという気持ちはありませんでした。まあ、次は分からんなという憶測はありましたけれども、かろうじて助かるのではないかと思っていました。目の前で残虐行為をやられても恐いとも全然思いませんでした。狼狽して意識が朦朧(もうろう)としていました。つらい、悲しい、恐いという気持ちは全然ありませんでした。だけど最後には殺されるのではないか、という気がしました。殺されるのじゃないかなと思うし、逆に助かるんじゃないかという気もしました。気分が動揺していましたから。
部長さんが来られたので私は間一髪で助かりました。部長さんが一秒でも遅れていたら、首を切られていました。