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 もともと香川県は全国一の小さな県で、「五反百姓」といって平均五反くらいしか農地を持たなかった。多くは五反以下で、小作率も全国一と高く、小作争議も頻発した。十分な耕作面積が得られない部落の人たちは、行商で稼ぐしかなかったのである。当時の防犯ポスターには、「あやしい行商人をみたら、警察に連絡せよ」などと、行商を蔑視する見方があった。

 しかし、今でこそ薬局に行けば迷ってしまうほど多くの薬が並んでいるが、当時はやってくる売薬業者が唯一の頼りであった。薬の届かない山深い寒村にも薬を届けてまわり、多くの人の支えになっていた。ときには、流行りの歌や踊りで村々の子どもたちを喜ばせ、情報や文化を伝える担い手でもあった。

資料が伝える利根川・三ツ堀の惨劇

 いくつかの資料より事件の概要を拾ってみると、

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 9月6日、午前10時ごろ、香川県からやってきた売薬の行商団の一行が、売薬その他を車に積み、東葛飾郡野田方面から茨城県方面に行くべく、福田村三ツ堀にさしかかり、香取神社の境内で休んでいた。
 

 そこを警戒に従事していた村の自警団が見つけ、鮮人の疑いありとし、様々の尋問を行い荷物を検査したところ、四国弁で言語不可解な点があったため、全くの鮮人なりと誤認し、警鐘を乱打して村内に急を告げ、隣村にも応援を求めるにいたった。
 

 その結果、数百名の村民はたちまち武器を手にして、同神社前に殺到し、売薬の行商団を包囲し、「朝鮮人を打ち殺せ」と騒ぎ立て、行商団が百万言を尽くして「日本人である」と弁明したにもかかわらず、鮮人に対する恐怖と憎悪にかられて平静を失った群衆は、最早弁解に耳を傾けるいとまもなく、荒縄で縛り上げたり、鳶口、こん棒を振って殴打暴行をし、ついには「利根川に投げ込んでしまえ」と怒号し、香取神社から北方約一丁の距離にある三ツ堀の渡船場に連れて行き、行商団員九名を利根川の水中に投げ込み、内八名を溺死させたが、他の一名が泳いで利根川の対岸にのがれんとするや、群衆中より船で追跡するものが現れ、対岸でこれを惨殺し、残った五名(実際は六名)の行商団員は急報に接して駆けつけた巡査等のため、からくも救助され死をまぬがれる等、騒擾を極めた。

 (吉河光貞『関東大震災と治安回顧』より)

 急を告げる警鐘に、「それっ」とばかりに集まった村人の群衆心理はもはや普通ではない。手に手に凶器を持って鬼畜のように襲いかかってきたときの恐怖はいかばかりであったろうか。およそこの世のものとは思えない修羅場が展開したであろう。

『柏市史 近代編』(2000年3月発行)によると、村民や土村役場の「土村日記」の文書に、地震の記録が残されている。また、同書には「福田村・田中村の事件」として次のように記されている。

 福田村に於いても十五人の鮮人入り来るを認め、種々調査し検見するに言語不明にて野田分署より部長来りたる時すでに八人を殺害したるに依り、その八人は福田村の人にて殺したり、他の一人は利根川を流れて茨城県下の対岸に渉りたるを、田中村の人船に乗り福田村三堀下より出発し、その一人を殺したるもの……

(『柏市史 近代編』より)