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殺人犯に見舞金

 一般に「福田村事件」とされているこの事件には、田中村(現柏市)の人もかかわったことが、はっきり記されている。したがって「福田村・田中村事件」と呼ぶべきだという研究者の意見もあるが、事件現場が福田村であったことから、「福田村事件」と呼ばれている。また、事件後の対応について、『柏市史 近代編』には次のように書かれている。

 ……この事件にかかわって田中村の四人、福田村の四人、計八人が逮捕された。田中村は同年10月2日に村会議員・各区長・各団体長を招集し、この事件への対処方法を協議する。会議においては、隣村まで追い掛けていったことを問題にする意見も強く、弁護料として出すことはできないが、「役場に於いてか又は公共団体の如き団長より命令の下に行動したるならば止むを得ざる故」と、小金町の場合を参照して四人に対し三五〇円の見舞い金を戸数割りによって徴収し、支給することとなった……    

(同書)

 殺人犯に見舞金というのもおかしな話だが、背後に国の中枢機関が大きくかかわっていたということもあり、かれらは自分たちの代表で捕まったのだという同情の意識があったようだ。見舞金のみならず、村をあげて農作業の援助もしたといわれる。

15名の被害状況

 売薬行商人(高松市帝国病難救薬院)15名の被害状況は次のとおりで、亡くなった9名は、香取神社の手前の店の床几(しょうぎ)で休んでいた人たちで、からくも助かったのは香取神社の鳥居付近で休んでいた6名である。子連れの同業仲間として助け合いながら、やっとの思いで神社にたどりつき、ほっとしたのもつかの間、そこに生死を分ける運命が待ち構えていようとは、誰が想像しえたであろうか。

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事件の舞台となった香取神社(千葉県) ©AFLO

 被害者の年齢をみると、大人でも20代、それに、2歳、4歳、6歳と、いたいけない子どもである。しかも妊娠中の女性まで含まれている。混乱の中とはいえ、これが同じ人間のなせるわざだろうかと、信じがたいことである。出身地の香川県では、一行が帰らないので、震災に遭って死んだのだろうと諦めていたところ、半年あまりも経って、被害を免れた男性が事件を知らせたい一心で帰ってきた。当時6歳の子どもだったという女性の話によると、部落の大人も子どもも全員が男性の家に集まってことの真相を聞き、大騒ぎとなり全員が涙にくれた。

 そのあと、なぜ千葉県の福田村・田中村に抗議に行かなかったかという件については、「2歳、4歳、6歳、そしてお産前の人まで殺害するような鬼のような人たちなんだから、行けばまた殺されるに決まっているからと断念した」という。香川から遠い野田までの交通費の工面もままならなかっただろうし、当時としては、諦めざるを得なかったのだろう。

 殺された山崎武夫さんは、妻のフミさんと長男・和一さんを連れて行商に出ていた。息子が千葉県で殺されたことを知った母親は、涙が枯れ果てるほど何日も泣いた。やがて嫁と孫も実家に帰ってしまい、家も絶えて、位牌もなければお墓もない状態になったという。