一応、会費のようなものはあったが、ほとんどは健さん持ち。幹事は持ち回りだった。山城新伍さんが幹事を担当し、上野で花魁を集めて、いわゆる“お大尽遊び”をしたこともある。酒も飲まない健さんがニコニコしながら参加してくれたのが、うれしかった。
健さんが幹事をして、今で言うところの風俗店に行ったこともあった。
「ほら、みんなで女郎屋に行ってこい。金は俺が面倒見てやるから」
「女郎屋」とはずいぶん古臭い言葉だが、いかにも健さんらしい。
ただし、健さん自身は行かない。当時は江利チエミさんと結婚しており、そうした遊びは健さんの主義には反したのだろう。
つまり、自分を慕ってくれる後輩を楽しませたかったのだ。
ところで、当時の東映には高倉健派と鶴田浩二派という2つの派閥が存在した。鶴田浩二さんがかわいがったのが、たとえば松方弘樹ちゃんだった。
昔から「両雄並び立たず」という諺があるが、健さんと鶴田さんが、まさにそんな関係だった。
良き思い出になった鶴田浩二に蹴られた痛みは
ともに東映の任侠映画を支えた看板俳優であり、数多くの映画で共演した。しかし、ソリは合わなかった。私も、2人が仲良く食事をしている光景を見たことがない。
2人の共演作に、私も出演したときのことだ。
任侠映画の辣腕プロデューサーとして知られる俊藤浩滋さんが、健さんを昼食に誘ったのである。健さんの付き人と私も同席した。健さんと俊藤さんの話は弾み、撮影開始時刻が近づいても終わりそうにない。
「そろそろ時間ですが……」
私が言っても、俊藤さんは平然としている。
「まだ大丈夫だよ」
結局、健さんと私は鶴田さんが待つ撮影現場に大幅に遅れて入り、周囲のスタッフが大慌てで健さんに衣装を着せた。
すぐに撮影が始まり、私と鶴田さんの絡みのシーンに入った。すると、鶴田さんは、いきなり私の足を蹴飛ばした。「痛っ」と思ったが、声に出せない。健さんを見ると「我慢しろ」という目をしている。
まだ駆け出しだった私は鶴田さんを恨んだ。
「なんて意地悪な人なんだ」
しかし、映画の世界は仲良しクラブではない。慣れ合うより、ときには理不尽なほどの厳しさがあっていい。ライバルが鎬を削るとは、そんな一面もあるのだ。鶴田さんに蹴られた足の痛みは、今は良き思い出として記憶に残っている。
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