深作欣二と高倉健。私が心酔したふたりのサムライ
武士道について書かれた『葉隠』という書物の存在は、ご存じだろう。
佐賀藩士の山本常朝が隠居後、主君に奉仕する武士の心得を後輩に向けて述べたもので、「武士道といふは死ぬことと見つけたり」の言葉は、あまりに有名だ。
しかし、「死ぬことと見つけたり」とは何も死を美化するための言葉ではない。「腹を据えて、死ぬ覚悟で仕事にあたれ」というのが本当の意味である。
そんな生き方を身を持って示したのが、私が心酔した深作欣二監督であり、高倉健さんだった。映画の世界で2人のサムライに出会えたのは、今さらながら幸運だったと思う。
同じサムライでも、深作監督と健さんではタイプがまるで違う。
深作監督が巧みに配下の武士のやる気を引き出しながら、大きな事業を成し遂げてしまう豊臣秀吉だとすれば、健さんは信じる道を真っすぐ、愚直に突き進む上杉謙信に近いと言えるかもしれない。
健さんは私に人としても俳優としても、さまざまなことを教えてくれた。
『網走番外地 南国の対決』(1966年)で沖縄ロケに行ったときのことだった。
私は船の上から海に落ちるシーンを演じた。当然、全身ズブ濡れである。ところが、そのまま近くの船着き場に下ろされると、スタッフからは
「すいません。ここからはタクシーでホテルに帰ってください」
と言われたのだ。そのままではタクシーに乗れない。しかたなく、服が乾くのを待って、タクシーを呼ばなければならなかった。
その夜、思わず健さんに愚痴をこぼした。健さんは私を諭すように言った。
「本当は、誰かが送ってやるべきだった。でもな、千葉、撮影現場は時間もなければ、人手も足りていなかったんだ。どうしようもなかったんだよ。そう思って、我慢しろよ」
健さんの言う通りだ。私は自分の甘さを恥じた。
映画製作において最優先されるべきは何か。それは撮影が滞りなく進行し、作品が完成することである。
もし、健さんが私と同じような境遇に置かれたら、おそらく、ビショ濡れの格好でホテルまで歩いて帰ったのではないか。健さんとは、そういう人である。
「ほら、みんなで女郎屋に行ってこい。金は俺が面倒見てやるから」
そんな健さんを慕ったのは、私だけではない。
健さんとは同じ明治大学出身の山本麟一さん、今井健二さん、さらに室田日出男さん、梅宮辰夫さん、山城新伍さん、曽根晴美さん、谷隼人、小林稔侍……。こうした健さんの人柄に惚れた男たちが集まって作ったのが「野郎会」だった。
グループ名は男を意味する「野郎」と、何かを「やろう」というのを掛けたもので、1か月に1回程度集まっては野球をやったり、旅行に行ったりした。