2021年8月19日、新型コロナウイルス感染症による肺炎のため、82歳でこの世を去った千葉真一。ここでは国内外で長きに渡り活躍したアクションスターが、最後に残した自叙伝『侍役者道~我が息子たちへ~』(双葉社)より一部抜粋。
敬愛し続けた名優・高倉健との思い出を振り返る。(全3回の1回目/続き、#3を読む)
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憧れの高倉健さんに会ってお願いしたこと
1966年の日本映画で配給収入1位に輝いたのは、高倉健さん主演の『網走番外地 大雪原の対決』である。
往年の映画ファンなら一度は観たことのある人気シリーズが始まったのは、前年の65 年のことだった。これが空前の大ヒットとなり、3年間にシリーズ10作品を数えることになったのである。
この年も『大雪原の対決』以外に『荒野の対決』、『南国の対決』の2作品が公開され、いずれも配給収入のベスト10入りを果たした。その頃の高倉健さんと『網走番外地』の人気が、いかにすさまじいものだったか、お分かりいただけるだろう。
しかも、当時、健さんは『網走番外地』以外に『日本俠客伝』(64~71年)と『昭和残俠伝』(65~72年)という2つの東映のドル箱シリーズに主演しており、多忙を極めていた。
そんな健さんに、私は自分が主演する『カミカゼ野郎 真昼の決斗』に無理を承知で出てもらおうと考えた。私にとっては久々の、そして待望の深作欣二監督作品である。その映画に憧れの人である健さんに出てもらえるのなら、これ以上うれしいことはない。
さっそく東京撮影所の健さんの部屋に行き、頭を下げてお願いした。
「分かった。1日だけ時間をくれ。本(シナリオ)を読んでみるから」
翌日、健さんから電話がかかってきた。「今すぐに俺のところに来い」と、例のぶっきらぼうな調子である。私は、てっきり断られるものと思った。
部屋に入ると、健さんがニヤニヤして私を見ている。
「千葉、いいよ。出ることに決めたよ」
思わず、うれしさのあまりその場で飛び上がりたいほどだった。私が主役で、健さんが脇で私を支えてくれる。こんな夢のような映画が実現するとは想像だにしなかった。当時、私が27歳、健さんが35 歳である。
健さんの思いやりがつまった“2着のチャコールグレーのスーツ”
健さんとの思い出は尽きない。東映の大先輩俳優である健さんのところに初めて挨拶に行ったのは、私が子ども向けのヒーロードラマ『新 七色仮面』に出ている頃である。
貧乏な私はスーツなど買えないため、その日も、いつも通り学生服だった。
「千葉、時間はあるよな。一緒に飯に行こう」
と、夕食に誘っていただいたのだ。
それから数日後、健さんの部屋に呼び出された。緊張して直立不動でいる私に、健さんは言った。
「千葉、おまえも最近は取材を受けたりすることがあるんじゃないか」