なぜ日本映画は多様性を失ってしまったのか? ネット配信やSNSに押されメディアの天辺から転落してしまったのか? 最新出演映画『』の公開を10月13日に控えたオダギリジョー(47)に、20年以上歩み続けた映画界の現状を尋ねた。(全2回の1回目/続きを読む

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オダギリジョーが主演にこだわらなくなった理由

――ある時期から主演することにこだわらなくなりましたよね。

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オダギリ まあもともと、役の大小で仕事をジャッジするタイプではないんですが、たしかに主演を避ける傾向はあるかもしれません。主演をやることはその作品を背負うことと一緒ですし、そこには自分の名前も作品の顔として残ってしまうので、一緒に死んでもいいと思うほどの作品でないと主演したくないんです。それだけの思いになれる作品が少なくなってしまったということなんでしょうね。

 少し踏み込んだ話をすると、主演は物語の中心にいるから、役者からすると遊びがいがあまりないんです。オーソドックスな芝居、わかりやすく、共感されやすい芝居を求められてしまうので、そういう意味でも面白みに欠ける部分が正直なところあります。主役として長く残っていく人たちは、そういう星のもとに生まれた人たちだと思いますよ。僕はそこに長居できないタイプでした。

撮影 釜谷洋史/文藝春秋

――主演と助演の役割はまるで違いますか?

オダギリ まるっきり違うという感覚です。遊びの余地がどれだけあるかもそうですが、それは楽しみ方の違いにもつながってきますよね。役者としてなにを求めているか、人それぞれに差がありますから。主演の楽しみ方と助演の楽しみ方には大きな差があるし、どちらにも作品に対する役割があるということだと思います。

――主演ができる人たちは「そういう星のもとに生まれた人たち」だということですが、それはもう少し具体的にいうと?

オダギリ 主演ができる人っていろいろなものを犠牲にできる人なんです。犠牲を甘んじて受け入れられる人。

――例えばプロモーション活動に精を出すようなことも求められますね。

オダギリ 矢面に立ち、全面的に責任を背負うって凄いと思いませんか? そういう覚悟を持つ人でもあるから尊敬できる反面、もし表現者として満足できていないとしたら可哀そうっていうんですかね。可哀そうっていうと語弊があるかもしれないですけど。主演の苦しみを受け入れている方たちは本当に偉いと思います。そこまでできるのは特別な星のもとに生まれた人たちだけなんだろうなと感心しますね。