――以前のオダギリさんは年に5、6本近い主演作に出演していました。なぜそんなに、と思うほどでしたよね。
オダギリ 2000年代初頭の日本映画には多様性があって、出たいと思う魅力的な作品がたくさんありました。当時はいろいろな映画を作っていましたよね。エンタメに偏ることなく、なんでこんな作品を……と思うような変わった作品まで(苦笑)。そのなかで花開いた才能もあったし、名作として残るものもあった。むしろ真っ当な映画なんて作ってたまるかというような、ひねくれたクリエイティビティがカルチャーを推し進めていたようにも感じます。
当時から自分で仕事を選んでいたので、もちろん後悔はないですけど、その多様性が時代とともに薄れていき、そのうえコンプライアンスなど表現そのものに対しても厳しさが増す時代の変化の中で、主役をあまりやりたくないという気持ちになってしまったんでしょうね。ああいう土壌は現在の日本映画にはないですから。
自分はいま40代なかばで、あと何年俳優をやるかわからない。携わる作品も今後もうそんなに多くないはずです。そう考えると、本当にやりたい作品にしか出たくないし、余計な時間を無駄にしたくはないですからね。
だからここ最近は自分で作るほうに目が行きがちなんです。やりたいことがあるなら自分で企画して、誰のせいにすることもなく、すべての責任を負いながらオリジナリティで勝負したい。それでも俳優として絶対に出たいと思ったのが石井裕也監督の『月』でした。石井さんは毎回のように出たいと思わせてくれる、稀有な作家だと思っています。
なぜ日本映画は凋落してしまったのだろうか?
――過去のインタビューで、『ゆれる』(2006)の直後にすでに日本映画が凋落する兆しを感じていたとおっしゃっていました。でも2006年は日本映画の興行シェアが21年ぶりに海外映画を上回り、活況を呈していた時期だったんですね。それなのにオダギリさんは、状況が悪化しているように感じていた、と。
オダギリ たぶんその状況を冷静に捉えていたからこそ、本当に微妙な変化を感じていたんでしょうね。でもかつてのバブルと同じように、その時期の日本映画に携わっていた人なら、みんなどこかで感じていたことだと思います。「なにかがおかしい」って。その辺からずっと続いてますよね、悪い状況が。いまでも「日本映画はどうなりますか?」とインタビューで聞かれたりするんですけど、それは僕ではなく日本映画の中心にいる人たちに聞いてもらいたいです(苦笑)。
幸いにして、いまは自分の作りたいものを作っていいと言ってもらえるような状況があるので、僕はもう自分の作るもので勝負するしかないと思っています。日本映画の現状がどうであれ、自分の作りたいものを貫きたい。そんな気持ちですね。
――一時期は海外作品に目を向けた時もありましたが、その一方で現在も日本映画に継続的に出演されているのは、なんだかんだ言いつつ日本映画を見捨てていない、ということじゃないですか?