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石坂泰三、土光敏夫に次ぐ3人目

 冒頭に述べたように、車谷氏は東芝にとって外部から迎える3人目のトップである。車谷氏の前に外部から乗り込んだ2人とは、1949年から1957年まで社長を務めた石坂泰三氏と1965年から1972年まで社長を務めた土光敏夫氏である。日本財界の巨星であるこの2人と車谷氏を比較するのは、そのこと自体が偉大なる2人の先達に失礼だが、若い読者には若干の説明が必要かもしれない。

 石坂氏は1911年東大法科を卒業して逓信省(現総務省)に入省するが、1915年、同省を退官し第一生命保険に入社。52歳で社長になる。石坂が社長の時に建てたのが、戦後GHQ(連合国軍総司令部)に接収された日比谷の第一生命館であり、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは石坂が使っていた椅子に座った。

第一生命保険社長も務めた石坂泰三氏 ©文藝春秋

 戦後、三井銀行の頭取に懇願され、石坂氏は1949年に東芝の社長に就任した。下山定則国鉄総裁が轢死体で発見された「下山事件」のあった年であり、日本各地で大規模な労働争議が起きている中、経営者はいつ命を狙われてもおかしくない状況である。特に戦前10万人超の従業員を抱えていた東芝は「総資本VS総労働」の主戦場になっており、生産現場は荒れ放題、台所も火の車で倒産寸前の状況だった。「お公家様」と呼ばれた東芝プロパー経営陣はオロオロ逃げ回るばかりで埒が明かない。石坂氏の派遣は、総労働をねじ伏せるための、財界の総意だった。

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最初に「財界総理」と呼ばれた

 石坂氏は社長就任が決まると、単身でふらりと組合の本部に現れ「近く社長になる石坂です」と挨拶し、労組幹部の度肝を抜いた。石坂氏は「会社が潰れては元も子もない」と荒れ狂う労組を抑え込み6000人の人員削減を断行する。一方で残った従業員の待遇改善には心を砕き、労働協定を結んだ時には「ぼくは諸君に英雄にさせてもらった」と組合員に頭を下げた。東芝の労働争議を平定した石坂氏は第2代の経団連会長に就任した。最初に「財界総理」と呼ばれたのも石坂氏である。

 経団連会長時代、経団連会館建設のため国有地払い下げを申請した。石坂は何度も大蔵大臣を訪ね、頭を下げたが、大手町の一等地は欲しがる企業や団体が多く、政治家も絡んで一向に払い下げ先が決まらない。もともと気が短く癇癪持ちだった石坂は、時の大蔵大臣、水田三喜男氏を怒鳴り上げる。

「もう、君には頼まない」

 このセリフはそのまま、石坂氏の生涯を描いた城山三郎の小説のタイトルになっている。現代の国有地の払い下げといえば「森友問題」だが、登場人物には権力者を忖度する官僚ばかりが目につく。小粒になった大企業の経営者は官僚の顔色を見る。官僚が政治家を忖度し、その官僚を経営者が忖度する。自分が正しいと信じれば大臣をも怒鳴り上げる。石坂氏のようなスケールの経営者は絶えて久しい。