いまから110年前のきょう、1908(明治41)年3月22日、東京郊外の大久保村(現・新宿区大久保)の銭湯・森山湯付近の空き地で、風呂帰りの人妻(28歳=年齢は数え年、以下同)が強姦殺害された。2週間後には容疑者として池田亀太郎(35歳)という植木職人が捕まる。女湯ののぞきの常習犯だったための見込み逮捕であった。取り調べに対し犯行を自白した亀太郎だが、公判では一転して、身に覚えのない濡れ衣と否認。しかし無期徒刑の有罪判決が下される(小沢信男『定本 犯罪紳士録』ちくま文庫)。
のぞきや痴漢を指す「出歯亀」という語は、出っ歯だった亀太郎のあだ名に由来する。ただし、同時期に市ヶ谷の東京監獄に収監されたアナーキストの大杉栄(1885~1923)によれば、実際に会った亀太郎は《大して目立つほどの出歯でもなかった》とか(『大杉栄全集 第13巻 日本脱出記・獄中記』現代思潮社)。また、彼がのぞきの常習犯であったことは事実ながら、強姦殺人については裁判で主張したとおり冤罪との見方もある。
戯曲『瞼の母』などで知られる小説家・劇作家の長谷川伸(1884~1963)は、没後に見つかった覚え書きのなかで、「出歯亀冤罪」と題し、事件について調べたことを記録していた。それによれば、亀太郎は事件の起こった当夜7時半すぎ、四谷荒木町の居酒屋で飲んだあと、そこから100メートルほど先、大番町(現・大京町)にあった女髪結のもとに赴くと寝入り、11時頃、家の者に起こされて帰路についたという。河田町の自宅に着いたのは12時近くだった。警察の検視では、被害者が殺されたのは午後8時半~9時頃と断定されており、亀太郎にはアリバイがあったことになる。しかし、女髪結は、彼が捕まったと聞くや、関わり合いを恐れて家の者に固く口止めしてしまい、事件当日のことは四谷署の元刑事に語るまで1年半も黙っていたという(長谷川伸『私眼抄』人物往来社)。
結局、亀太郎は13年間服役して1921(大正10)年に仮出所する。その後は地元に戻り植木屋を続けたが、のぞき趣味はあいかわらずで、1933(昭和8)年には銭湯をのぞいているところを警察に捕まっている(即日釈放)。このとき数えで60歳、新聞では「老痴漢捕えて見れば往年の〈出歯亀〉」と報じられた(小沢信男『ぼくの東京全集』ちくま文庫)。