木でできた刀を売っているような土産物店があれば、流行りのスイーツ店もある。中でも何よりの名物はうなぎだ。活気溢れる参道を歩くと、うなぎを焼く香ばしい匂いが流れてくる。有名店を中心にいくつかの店舗があるようだ。このいかにもうなぎ、といった香りの中に身を置くと、うなぎが高いことなど忘れて食べたくなってしまう。食欲を刺激するのは、何はなくとも匂いなのである。
良い香りが漂う曲がりくねった参道を行く。どうしてこんなところにうなぎが?
うなぎの香りに誘われながら、くねくねと参道を歩く。成田山新勝寺門前までの参道は、くねくねしているだけでなくアップダウンも激しい。
駅前から北東に向かって歩いていたはずが、気がつけば北西に。また北東に進路を変えて、急な下り坂を降りてゆく。しつこいほどのうなぎの香り、土産物店の威勢の良い声かけをかわし、駅前から10分ほどで新勝寺の門前にたどり着いた。
成田山新勝寺は、940年に創建された真言宗智山派の大本山である。平将門が関東で反乱を起こしていた時代で、時の朱雀天皇に命じられ、寛朝大僧正が京都・神護寺に奉安されていた空海作の不動明王像を手に下向。この地で朝敵将門調伏の護摩を修したという。
それが幸いしたのかどうか、ほどなく将門の反乱は平定され、寛朝大僧正が開山したのが成田山新勝寺のはじまりである。その門前町が、成田の町のルーツというわけだ。
新勝寺は江戸時代に入ると代々の佐倉藩主によって手厚く保護され、江戸時代半ばには江戸から庶民が足を運ぶ関東第一の霊場としての地位を固めてゆく。スマホもネットもサブスクもない時代、庶民の楽しみは寺社参詣と称して旅をすることくらいで、江戸から遠すぎず近すぎずの新勝寺、なかなかいい場所だったのだろう。
うなぎが名物になったのもちょうどこの頃。印旛沼や利根川ではウナギがよく獲れて、それを江戸からやってくる参拝客たちに提供するようになったのがはじまりだという。
江戸時代のうなぎ、いまみたいなお高めグルメだったのかどうか。庶民が参拝旅行のついでに食べた、ということはいまならば函館朝市の海鮮丼あたりの相場をイメージしておけばよさそうだ。
ともあれ、いまの成田駅前の門前町としての市街地は、江戸時代までにすっかり完成されていたといっていい。もちろんいくらかの変遷はあるだろう。少し裏道に入るとスナックが並ぶエリアがあったり、大衆酒場の類いも駅の近くに。京成成田駅の裏側(東側)に見えるアパホテルを筆頭にいくつかホテルがあるのは、新勝寺参拝というよりは空港利用客をターゲットにしているに違いない。
駅の西側までやってくると雰囲気は一変
さらに、JR成田駅の西側まで歩を進めると、こちらは参道側の賑やかな雰囲気とはうってかわってザ・住宅地。成田ニュータウンと呼ばれる新興住宅地も形成されているらしく、千葉・東京方面のベッドタウンとしての性質も持っているようだ。