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 成田から東京へ通勤、とだけいうとなかなか大変そう。でも、1時間半程度で済むと思えば、それほど不便ということもないのだろう。なにより、おいしいうなぎがいつでも食べられますしね。

 成田の町が、ベッドタウンとしても成り立ちうるのは、ひとえに鉄道が充実しているからに他ならない。JRは成田線が都心に直通していて、我孫子方面への支線もある。京成を使えばこちらももちろん都心直結だ。それでいて旅行の折には空港が目と鼻の先。こんな便利な町はなかなかないと思う人も少なくなかろう。新幹線に乗るときはちょっと手間がかかるが、それでも乗り換えは1度で済む。遠い目的地なら最初から空路を使えばいい。

なぜこれほど「成田」には鉄道が?

 と、このように鉄道の利便性が極めて優れている成田の町。それもまた、成田山新勝寺のおかげさまである。

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 江戸時代から盛んになっていた成田山新勝寺への参拝旅行が、明治になって途切れるわけもない。となると、鉄道が通ったら便利だろうなあと考えるのは人の常。そこで、1897年に成田鉄道によって現在の成田線が開業した。すでに総武鉄道として開業していた現・総武本線の佐倉駅から成田駅まで。これによって、東京から成田山新勝寺への鉄道ルートが確立されたわけだ(ちなみに当時の総武本線はまだ隅田川を渡ることができず、両国駅をターミナルにしていた)。

 1901年には我孫子~成田間の支線も完成する。これによって、日本鉄道(現・常磐線)との直通運転をスタートし、上野~我孫子~成田間の列車を走らせるようになった。この直通列車は食堂車が連結されるなどサービスも先進的で、それだけ成田山新勝寺への参拝客輸送は“ドル箱”だったということだろう。

 成田鉄道も総武鉄道も日本鉄道も、最終的には国有化されて成田線・総武本線・常磐線になった。そうなってからも参拝客輸送は大きな役割であり続けた。

 しかし、強力なライバルが登場する。1926年に京成電気軌道(現・京成電鉄)が成田まで開業したのだ。最初から電車での運転の京成は、スピードも乗り心地も蒸気機関車の成田線を凌駕した。結果、参拝客輸送の中心は“私鉄”の京成が中心となる。

 

 それでも、大量輸送が可能な国鉄ネットワークの一端を担う成田線の存在感は大きく、全国各地から新勝寺を目指す団体輸送では盛んに成田線が使われた。1968年には新勝寺開基1030年祭が催され、それにあわせて増加した参拝客のために、成田までの電化も完成させている。この頃までの成田の町は、完全に成田山新勝寺の門前町であるがゆえに鉄道の充実をみて、それを背景にベッドタウン化の足がかりをつかんだのだ。

「成田」から“消えた路線”の足跡はいまも残っていて…

 実は、成田の鉄道の充実というのはいま乗り入れている成田線と京成線だけではない。かつて、成宗電気軌道という路面電車が町の中を走っていた。その廃線跡は、「電車道」と名付けられていまも明瞭に残されている。