成田山新勝寺の門前と駅前を結ぶ道は、メイン通りの表参道以外にもいくつか通っている。そのうちのひとつが、電車道だ。いまは名前だけが残って電車は走らずクルマが走っているのだが、歩いて辿ると廃線跡であることがいかにもよくわかる。
表参道にはとても電車は走れない急勾配があるが、電車道は全体的に緩やかな勾配。急なカーブもなく、門前町をゆったりと走っていたのだろう。
途中には、短いトンネルもそのまま残っている。レンガ積みのトンネルで、上は道路になっている。土木遺産として貴重であると同時に、このあたりがいかに起伏に富んでいるのかをよく教えてくれる。
新勝寺方面から電車道を歩いてふたつのレンガトンネルを抜けると、パッと視界が開けて高台に出る。成宗電気軌道の電車のために設けられた築堤で、その上からは成田空港へと行き来する京成線の高架が間近。反対を見れば成田の市街地を見下ろすことができる。絶景、とはちょっと性質が違う気もするが、こうした隠れた見どころがあるのも、成田山新勝寺の賑わいのおかげである。
消えた路面電車に誕生した空港…その中で変わらない「成田」という町の“本質”
成宗電気軌道は何度か経営体制の変更を経て、1944年には戦時中の不要不急線として廃止されてしまった。もともと人通りの多い門前町の中を走っていたこともあって、戦争が終わっても復活することなくそのまま消えた。そして、戦後もだいぶたってから、成田の町に新たにやってきたのが成田空港、新東京国際空港である。
成田空港が開港したのは1978年のことだ。その前後の経緯を語ろうとすると、かなり鋭敏なところに踏み込まなければならないし、成田駅を歩く、というテーマから逸れるのでここでは触れない。ただひとつ言えるのは、空港開港と同時に乗り入れたのは京成線だけだったということ。成田線が支線を設けて空港に乗り入れたのは、だいぶ遅れて1991年になってからである。それまでは、成田駅を介して成田線から京成線に乗り換える旅行客も少なからずいたことだろう。
いずれにしても、成田の町は新勝寺の門前町にはじまり、それが故に早くから鉄道に恵まれた。遅れて登場した成田空港は、そんな鉄道の利便性も背景にして大いに存在感を発揮するようになったことは間違いないだろう。なにしろ、空港のすぐ近くまで、もともと私鉄とJR(国鉄)の線路が通っていたのだから。
いま、“成田”というと誰もが空港を思い浮かべる。ただ、その町の本質は、今も昔も門前町。ちょっとした“鉄道の町”としての側面も、ベッドタウンとしての一面も、もちろん空港も、門前町・成田がベースにあることは間違いないといっていい。そして、やっぱり成田のうなぎ、ウマいのである。
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