今では考えられないことだが、かつて芸能人とヤクザは密接に付き合っていた時代があった……。極道歴66年、元ヤクザの正島光矩氏(1940年生まれ)が「ヤクザと仲良くしていた芸能人・避けていた芸能人」を解説。芸能界とヤクザの蜜月が成立していた背景とは? 初の著書『ジギリ 組織に身体を懸けた極道人生』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
◆◆◆
芸能界との繋がり
わしが現役時代に関わった芸能界の話をしたいと思う。
現役時代、白神組若頭の稲本組が、京都の東映の撮影所の面倒を見ていた。当然いろいろな組が東映の撮影所の面倒を見ていたが、その中でも稲本は力があったほうだと思う。
そういう関係でわしはいつも東映撮影所に出入りしていたので、その頃、いろいろな役者と知り合った。
年に1回東映祭があり、その祭りには当時の東映所属のオールスターが出演していた。あの頃出ていた人だと、片岡千恵蔵、それから中村錦之助(萬屋錦之介)、若山富三郎、その下に山城新伍、梅宮辰夫、菅原文太など、いろいろいた。その中でわしが個人的に付き合いがあったのは、山城新伍とか梅宮辰夫、菅原文太だ。みんな死んでしまったが、友人としての付き合いは長いことさせてもらっていた。
若山富三郎とも深い関係があった。名古屋に住んでいる頃、水原弘という往年の歌手で「黒い花びら」というヒット曲を出した人間がいたが、これで勘違いしたのか段々交友関係が悪くなっていった。ある関東のヤクザ者に博打で何百万負けて、追い込まれたときに逃げ込んだのが若山富三郎のところだった。若山富三郎のところはウチが関係していたので、結局稲本とわしで相手に話を付けたことがあったのだ。
わしは富さんと長いことの付き合いもあって信用もされていたから、あの人が京都の病院で入院していたときなんかは、毎日見舞いに行くくらいの関係だった。
当時の芸能界というのは、ヤクザと仲良くしていること自体、特に問題にはならなかった。その大きな理由として、昔は興行権といって、そこの地元のヤクザが許可しないと興行が打てなかったということと関係があると思う。今はそういうことはないが、昔は芸能関係とヤクザは深い繋がりがあったのだ。「挨拶に来なかったら興行を打てない」なんてことはザラにあった。
あの鶴田浩二だって、田岡の親分の顔を潰されたと怒った組員から襲撃され大問題になったこともある。