ーー壱成さんが2歳の頃に離婚して、16歳のときに再会されたそうですね。14年ぶりに壱成さんの顔を見たときは、どんな思いが?
石田 「申し訳ない」って気持ちが強かったですね。僕は壱成のお母さんにフラれたんですけど、そこでいろいろキチッとやっておかなきゃいけないことをやってなかった。それもあったし、いじめられていたことがあったともチラッと聞きましたし。とにかく「こういう境遇にしてしまってごめんね」 という申し訳なさが一番でした。
「この子は危険よ!」とメリー喜多川さんに言われたことも
ーー壱成さんが俳優になったのは、石田さんの強い勧めがあったからだと聞いています。
石田 会った時に「申し訳ない」って気持ちが押し寄せたのと同時に、「なんてキラキラしているんだ」とも感じたんですよ。「これは、すぐに役者をやらせたほうがいい」って。あのときの壱成は、なんともキラキラしていたんですよ。
ーーでも、壱成さん自身はミュージシャンを目指していたとか。
石田 そうなんです。そう聞いて、再会した後に小杉理宇造さんが社長をやってたスマイルカンパニーに壱成を、すこしの間だけ預けたんですよ。そこで、小杉さんの息子さんの小杉周水君、和田誠さんの息子さんの和田唱さん、壱成の3人で練習してましたよ。
その頃、メリー(喜多川)さんが壱成を見掛けて「この子は危険よ!」って言ったらしいんですよ。ジャニーズ(当時)にとって脅威になるって。理宇造さんが「友達の息子なんです」と説明したら「誰?」「石田純一です」「エーッ! じゃあ、勝手になさい」みたいになったらしいです。
自分が20年かかったことを1年足らずで成し遂げてしまう息子
ーーそれほどのオーラを放っていたと。
石田 なにかを持ってるんですね。実際、デビューしてすぐにバババッといきましたから。『ひとつ屋根の下』(フジテレビ・1993年)に出て、それから少しで『未成年』(TBS・1995年)と『聖者の行進』(TBS・1998年)の主演でしょ。
僕なんか、壱成にアドバイスなんて一個ぐらいしか言ってないですから。「声はデカくて通るのがいいのが当たり前だけど、小さい声でずーっと向こうのほうまで通るような声も練習してみな」とだけ教えて。「ふーん、そういうもんなんだ」とか答えてましたけどね。
あともうひとつ、デビューする前ですが、現場を見せたんです。僕が主演した映画『愛と平成の色男』(1989年)の銀座の夜間ロケで、日が出る朝の5時までやってるのを見て「大変なんだね、この仕事って」なんて言ってましたね。