アメリカでは、政界を中心に陰謀論者や原理主義保守派の暴走が止まらない。ここでは、現地在住の映画評論家・町山智浩氏がリアルタイムのアメリカをレポートした『ゾンビ化するアメリカ』(文藝春秋)より一部を抜粋。
アイダホ州で起きた殺人事件の犯人を追い詰めた、現代的な捜査方法とは――。〈初出は「週刊文春」2023年1月26日号〉(全4回の2回目/続きを読む)
◆◆◆
夜中に誰かがすすり泣く声が…平和な町で起きた凄惨な事件
10年以上続くこの連載でアイダホ州について書くのは初めてだ。何も起こらない州だから。
アイダホは山と森と湖の州。アイダホ・ポテトで知られるように農業と林業が中心。全米で最も犯罪の少ない州の一つ。アイダホ大学のあるモスコー市でも7年間、殺人事件はなかった。だから、今回の被害者たちも家のカギをかけなかったのかもしれない。
11月13日午前4時頃、アイダホ大学の女子学生Aさんは犬の鳴き声で目が覚めた。Aさんは女子学生6人で共同で一軒家を借りて暮らしていた。上の階から誰かがすすり泣く声が聞こえた。そして、男の声が「だいじょうぶ、助けるよ」と言っている。
怖くなってドアを開けると、真っ暗な廊下の向こうに黒ずくめの男が立っていた。スキーマスクの目の穴から、フサフサした眉毛が見えた。あわててドアを閉めてカギをかけると、男はドアを通り過ぎて、家から出ていった。
Aさんは怖くて、そのまま何時間も動けなかったが、朝、だいぶ経ってからようやく警察に通報した。駆けつけた警察は2階と3階で、ナイフで刺殺された4人を発見した。
ケイリー・ゴンカルブス(21歳)とマディソン・モーゲン(21歳)は小学校からの親友同士だった。ザナ・カーノドル(20歳)はボーイフレンドのイーサン・チャピン(20歳)を部屋に泊めていた。ザナは直前までTikTokをいじっていて起きていた。Aさんが聞いたすすり泣きは彼女のものらしい。他の3人は眠ったまま刺されていた。
よくある学園スラッシャー映画の再現のような事件だった。
犯人は1カ月経っても特定されず、捜査の進展の発表も何もなかった。「のんびりした田舎で、犯罪捜査に慣れていないからだ」とモスコー警察を責める声も増えた。娘を殺された遺族の不満も募る一方だった。