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 平山氏は豊臣秀吉の小田原征伐によって滅ぼされ、檜原城も落城、廃城となる。以後、江戸時代を通じて檜原村は天領となる。

 江戸と甲州を結ぶメインルートは外れることになるが、裏街道としての機能は存続。ちょうど村役場があったあたりには、通行人を監視して取り締まる口留番所も置かれている。

 江戸方面から村に入るには決まってここを通らざるを得ず、そこから二手に分かれる村の要衝。城や番所、そして今では役場が置かれているのもとうぜんの、中心地なのだ。

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 この頃の(というか今も)、檜原村は村内のほぼすべてが山林である。だから、主要産業は林業だった。畑や田んぼはほとんどなく、あっても急斜面になんとか設けたていどのもの。そのため、村の人々は炭焼きによって生計を立てていたという。

 

 明治の初めには神奈川県から東京府に編入されているが、この編入を巡って自由民権運動も絡んで村内を二分する争いもあった。ただ、人々の暮らしの基本は、まったく変わらずに林業が中心であり続けた。

イメージとは正反対の「東京」

 村の様子が大きく変わったのは、戦後になってからだ。1960年代頃から道路の整備が進み、奥多摩周遊道路が完成。

 さらに山梨県側と連絡する甲武トンネルが1990年に開通するなど、交通の便が改善されていったことで、観光地、レジャースポットとしての地位を確立する。いまの檜原村は、観光が最大の産業になっている。そう考えれば、島嶼部を除く東京で唯一の村、という肩書きも、悪くないのかもしれない。

 

 すべて山の中にある檜原村。武田氏滅亡の折に落ち延びてきて住み着いた人がいるという、いわゆる落人伝説なども残る。

 村の中を歩いていると、当たり前のようにサルを見かける。離れたところからこちらを見ながら果物か何かを旨そうに食べる。食べ終えたら食べかすをそのまま捨てて、川の谷へと駆け下りる。

 確かに、これはまるで「東京」のイメージとは正反対の世界。そんなところに東京都心からたったの2時間で行けるのだから、東京は広く、そして狭いのである。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。