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 ただ、八王子はそれだけ独立した経済規模を持つ都市であったがゆえか、戦争末期には空襲にも見舞われている。終戦の2週間ばかり前、8月2日の未明にB29が襲来し、市街地の90%が焼失、約450名が命を落とした。そのとき、町の人々は甲州街道が浅川を渡る大和田橋の下に逃げ込んだ。そのときに降り注いだ焼夷弾の跡は、いまも大和田橋に残されている。

 ともあれ、かくのごとく織物業という特産を持っていたことで、八王子の町は「桑都」の異名とともに栄えていった。1889年には甲武鉄道によって現在の中央線が通り、八王子駅も開業している。日本の鉄道の中では特に早期にできた駅のひとつといっていい。

 

 さらに、戦後の復興も比較的スムーズに進んだ。周囲がまったくの市街地だった東京都心と比べて農産物などに恵まれていたのも幸いしたのかもしれない。八王子駅前には、1960年に「織物の八王子」と大書したシンボルタワーが建てられた。駅前整備の関係もあって1995年には姿を消したが、江戸時代以来の織物業の町であることを象徴するシンボルであった。東京に、こうした独自の産業を持っている町は他にない。

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中央線と京王線、2つの鉄道にみる“八王子パワー”

 また、駅前から東西に延びる放射道路は、戦後の復興の過程で新たに設けられたものだ。新しい時代になっても、とにかく駅と甲州街道を結ぶ道筋を整えるというのが八王子の町にとっては最優先事項のひとつだったのだろう。

 なお、京王八王子駅は1925年に「東八王子」の名で開業している。当時は玉南電気鉄道の駅だったが、そのまま京王線になっているので本質的には変わらない。

 新宿から武蔵野台地をほぼ一直線に走って立川に向かい、そこから多摩川と浅川を渡って八王子にやってくるのが中央線。甲州街道の存在などほとんど無視しているのが特徴だ。対して、京王線は新宿から一貫して甲州街道沿いを走る。調布や府中といった町も、甲州街道沿いにあって賑わいを得たベッドタウンだ。

 

 中央線は、とにかくできる限り直線的に八王子へ。織物業の栄える八王子への連絡を最優先したためだろう。京王線は、甲州街道沿いの町々を結んで八王子へ。江戸時代からの大動脈に敬意を表しつつ、キメの細かい地域輸送を狙ったものだ。同じように新宿と八王子を結びながら、まったく違うところを通ってくる。このふたつの鉄道路線からもまた、八王子という町が特別な存在であったことがうかがえる。