現在の八王子市域にあたる一帯は、戦国時代には北条氏によって治められていた。中でも三代当主北条氏康の三男・氏照が八王子城を本拠とし、甲州からの守りの要としての任を担っている。
八王子城は豊臣秀吉の小田原征伐によって落城するが、その後は徳川の領地に組み込まれ、改めて八王子の町が整備されてゆく。このとき、八王子城下の市街地を甲州街道沿いと鎌倉街道(現在の国道16号のルーツ)に移す。これが、いまの八王子市街地の原点だ。
八王子は江戸時代を通じて甲州街道の宿場町のひとつとなり、さらには江戸や日光の守りを担う千人同心も配置され、江戸の守りの拠点となった。ふたつの街道が交差する町であり、周辺の物資が集積する商業都市の側面を持っていたようだ。
八王子と“日本を支えたシルクロード”
そうした宿場町の中心は、ちょうどいまの甲州街道と国道16号が交差するあたり。つまり、駅の西側一帯が江戸時代以来の八王子の中心市街地、というわけだ。駅前から西に向かう放射道路の周辺が繁華街として栄えているのは、ある種そうした時代を引き継いでいるといえるのかもしれない。
また、江戸時代の終わり頃からは生糸や織物の産地として知られるようになり、それは明治になっても引き継がれる。明治時代には国産の生糸は貴重な外貨獲得の手段。だから、横浜の港から海外へと盛んに輸出されていた。そのとき、八王子産の生糸を運んだのが、いまの国道16号だ。
当時は浜街道、八王子街道などと呼ばれ、日本の近代化を陰から支えたシルクロードであった。八王子の機業は戦後しばらくまで八王子の代表産業であり、ネクタイなどは国内有数の生産地になっていたという。いまでもシルクのネクタイは八王子のふるさと納税の返礼品になるくらいの特産品である。