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なぜ八王子は“明らかに違った存在”なのか
八王子駅には、1908年に現在の横浜線、1931年には八高線が乗り入れている。どちらかというとローカル色の強い八高線は横に置いて、横浜線は相模原や町田を経て横浜に向かうという、“絹の道”の系譜を引く鉄道路線だ。実際に生糸輸送を目的に建設したようで、ほどなく絹の道経由の輸送から置き換わっている。
横浜線は、いまでは新横浜駅という新幹線接続の駅を持つ通勤通学路線になった。生糸の輸送はさすがにもうとっくに行われていないが、八王子はそのおかげで新幹線駅に直結するようになったというわけだ。56万の八王子のひとびとも、それはもうたいそう便利に思っていることだろう。生糸産業が廃れても、郊外に工業団地が生まれて工業都市としての側面はいまだ健在だ。
さらに、都心まで中央線・京王線の二本立てでアクセスできる利便性は、ちょっと遠いくらいで大いなる強みだ。結果、東京の衛星都市、ベッドタウンとしても発展することになった。
街道筋にはじまる商業都市。生糸を中心とした織物業の繁栄。それを当て込んだ交通機関の発達。そこに、東京との結び付きによるベッドタウンが加わった。八王子、ただの衛星都市にあらず。八王子が、東京都心やその周縁の多摩諸都市とは明らかに違った存在なのは、こうした歴史が映し出されているからなのである。
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