「日本人が一番使っている言葉を歌に」で生まれた『DA.YO.NE』
――94年に「EAST END×YURI」名義でリリースした『DA.YO.NE』が大ヒットします。
GAKU レコード会社のスタッフと僕らのチームで話をしている時、「日本人が一番使っている言葉を歌にしていこう」ということになり、友人のYURIちゃんと一緒に出したのが、『DA.YO.NE』でした。
でも、これも最初は売れなかったんです。北海道のラジオ局にピックアップしてもらって火がついて、次に沖縄に広がって、徐々に全国で聴いてもらえるようになりました。95年には紅白歌合戦にも出て、まさかここまでくるとは思っていなかったですね。
――売れる前と後では全然、世界が違う感じですか。
GAKU 売れる前は、小さなクラブでお客さんに「こっちを振り向いてください」とお願いするところから入って、一生懸命やっても「知らねえな、おまえらの音楽」って感じだったんです。
でも、ヒットした後は、ライブに出るとみんながパッと聴いてくれるようになりました。打ち上げでよくカラオケに行っていたんですけど、隣の部屋から『DA.YO.NE』が聞こえてくるんですよ。うれしくて、隣の部屋に突入していって「本人でーす」みたいなノリで盛り上がっていました。ほんと、いい時代でしたね。
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ミリオンセラーは、GAKUを取り巻く環境を大きく変えた。大学には行けなくなり、卒業は先延ばしになった。レコード会社からは第2弾の新曲を求められ、プロとして様々なプレッシャーを感じるようになった。
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いくら曲を作っても「前のほうが良かった」と
――『DA.YO.NE』が人生を変えてくれた感じでしょうか。
GAKU ラップで食っていくなんて思っていなかったけど、ヒットして紅白に出た時ぐらいに初めて、音楽業界で自分の地位を築いていける可能性があるなって思いました。チヤホヤされつつも色んな人に声をかけてもらえるようになり、他のジャンルのミュージシャンとも会話できるようになった。この時、ペンじゃなく、マイクを持って生きていこうと覚悟を決めました。
――ただ、「EAST END×YURI」は、3年足らずで活動を終えてしまいます。
GAKU うーん、いろんなプレッシャーがありました。『DA.YO.NE』がヒットして、当然、次が求められるわけです。僕もレコード会社も、もっといい曲を作るぞっていう気持ちがすごくありました。
でも、いくら曲を作っても「前のほうが良かった」と言われて……。僕もまだ軸が定まっていない時期だったので、同じような曲で行くのが正解なのか、違うタイプの曲で自分の世界を広げていくべきなのか、毎日悩んでいました。