――その後、高校生になっても芸能活動は続けたのでしょうか。
松村 はい。17歳のとき、高校2年生でデビューしました。それから1年くらいドラマの仕事をしたあとだったから、18歳のときですね、祖母が脳梗塞で倒れまして。
翌日から、ドラマの撮影で名古屋に1週間行く予定だったんですが、その前日のことでした。名古屋に行ったら1週間行ったっきりで2週間分を撮影して、また1週間帰って来て、というのを繰り返すスケジュールの前日で。
――気が気ではなかったのではないですか。
松村 それはもう、だって、ずっと2人でしたから。倒れたあとお医者さんが「入院する必要がなさそうなので、自宅療養しながらリハビリと投薬で様子を見よう」とおっしゃるのでその通りにして。
僕が名古屋に行っている間は、祖母の娘である叔母が面倒を見に来てくれたのと、事務所の社長が「お前が家を離れている間、何かあったら全面的にサポートするから」と言ってくれたことが支えでしたが、それでもやはり不安でしたね。
叔母やご近所さんのサポートが心の支えになっていた
――おばあさまが倒れる前兆みたいなものはありましたか。
松村 高血圧だったので、血管が狭くなっていたとは思います。薬は飲んでいましたが、それが何かのきっかけで詰まってしまったのかなと。祖母が倒れた日、僕が「明日から名古屋だから洗濯しておいてね」と言ったので、彼女は寒空の下で洗濯をしていたんですよ。だから「倒れたのはそのせいもあったのかな」と思ったりして、責任を感じつつ名古屋に行きました。
でもこの仕事をしていて良かったなと思うのは、ドラマの仕事でセリフを話していたりなんかする一瞬は、他のことを忘れられるんですね。それがあったから、僕はあまり思いつめ過ぎずに済んだのかもしれません。
――脳梗塞の後遺症はあったのでしょうか。
松村 左脳に影響が出たので、ペンが持てなくなって字が書けなくなりました。言語中枢もやられて、しゃべりづらくなって、ちょっとコミュニケーションも取りづらくなりましたね。
歩行困難もあったので、通いでお医者さんが来てくださって、リハビリしていました。
――当時、お食事はどうされていましたか。
松村 ほぼ叔母が作ってくれていました。僕が適当にちゃちゃっと用意できるものは作ってましたが、叔母が3食作り置いてくれたりして、本当に助かりましたね。あと、下町の都営アパートに住んでいたので、ご近所さんがおかずを持って来てくれたり、ご飯を持って来てくれたりすることもあったんです。
家にはお風呂がないから、祖母をお風呂に連れて行くときは僕が家から銭湯の入り口までおんぶして行って、あとは叔母が手を引いて一緒に女湯へ入って行くという感じで。そうすると近所のお惣菜屋さんとか、駄菓子屋さんとかが「あ、孫におんぶしてもらってよかったね、いってらっしゃい。よく湯に浸かってくるんだよ」なんて言ってくれてね。
――温かい声をかけてくれるんですね。
松村 そういう人たちのサポートは、祖母にとってもそうだし、僕にとっても心の支えになっていました。入院するとなれば差し入れを持って来てくれたり、退院するとなればお祝いをしてくれたり、当時は色々としてもらっていたと思います。
写真=佐藤亘/文藝春秋
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